立川志らくという人間に興味津々・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1493)】
クロバナロウバイの臙脂(えんじ)色の花が芳香を漂わせています。ナツグミの薄黄色の花もよい香りがします。キバナホウチャクソウが黄色い花を咲かせています。芳香のある、さまざまな色合いのスイートピーが咲き競っています。エビネがさまざまな色合いの花を付けています。
閑話休題、現在、私は立川志らくという人間に興味津々です。とぼけた顔をして本音をかます彼一流の技は、師匠・立川談志の本音丸出し流を凌駕していると考えているからです。
談志が亡くなる前に書かれた『志らくの言いたい放題』(立川志らく著、PHP文庫)には、志らくの本音がてんこ盛りです。
「私は、芸に逃げ道をつくらずに、新しいことにぶつかっていくということを心がけている。どういうことかというと、(二つ目だった)立川ボーイズ時代も同じであるが、一つの会を催したときに、必ず客にウケることをする、つまり保険をかけておくということを私はしないのである。・・・前半を落語会、後半を芝居にすれば楽なのだが、志らくはそれをやらない。・・・この逃げ道をこしらえないやりかたこそ、『談志イズム』だと私は思っている。談志は地方などで独演会をやるときに、田舎の年寄りや初めて落語に接する人に対して確実にウケるような落語をチョイスしない。現在、自分が一番楽しいと思える落語、自分が一番興味を抱いている落語をぶつける。商売として独演会をとらえていないのだ。多くの落語家が、地方に行くとわかりやすくて笑いの多い落語を一席やり、最後に涙の多い人情噺でしめるのだが、談志はこういった落語家を『商売をしてやがる』と軽蔑していた。逃げ道をつくらない、ようは商売をしないということなのである」。
「立川志らくという芸人は、普段はおとなしい人間なのだが、いやなことは絶対にいやと言う性格で、また若き日に談志から『落語家は馬鹿ばかりだからお前だけは馬鹿になるな』と教育されてしまった環境も合わさり、落語家とは基本的にはつきあわないことにしている。売れている落語家としかつきあわない。・・・こんな生き方をしているから多くの敵をこしらえる。兄弟子にも嫌われる。でもかまわない。尊敬している人から愛されれば、どうでもいい人から嫌われたってかまわない。とにかく好き嫌いは実にはっきりとしている。ならば竹を割ったような男らしい人間かというと、これがまったくちがうからおもしろい。どちらかというと藤子不二雄Aの『魔太郎が来る!!』の魔太郎みたいな性格である。いじいじしていて愚痴っぽく、嫉妬深く、怨みをはらさでおくべきかといったところがある。実際、人を呪う力まである」。怖いほど、私によく似ています。
声が出なくなった最晩年の談志の話です。「『なんで落語なんかやっていたのか』という言葉は、立川談志だからこそ言えるのであり、何十年も落語と闘ってきた落語家の言葉だから壮絶に聞こえるのである。落語と闘ってきた談志の落語に対する結論が、ああくだらないことに命をかけてきたもんだよ、というのも私は素敵だと思う。・・・でもこれが談志なのです。私が好きになった師匠なのです。言葉のブレなんかどうでもいい。いまを生きている。その日に思ったとおりに生きる。人生なりゆき。談志最高の名言が『人生なりゆき』なのでございます」。
やはり、志らくは只者ではないのでございます。