夏目漱石の『こころ』は、3つの遺書で構成されている・・・【情熱の本箱(285)】
この本に出会えてよかった。『<こころ>異聞――書かれなかった遺言』(若松英輔著、岩波書店)は、そう思わせる書物である。本書に遭遇しなかったら、夏目漱石の代表作『こころ』に対する私の理解は浅い段階に止まっていたことだろう。
著者・若松英輔は、『こころ』は、3つの遺書で構成されているというのだ。1つは、言うまでもなく、「私」に送られてきた「先生」の長い遺書であり、もう1つは、「先生」の親友「K」の自殺現場の机上に置かれていた「私」宛ての簡素な遺書である。しかし、この「K」の遺書には、書かれるべきこと――「御嬢さん」とのこと――が書かれていないと、著者は主張する。そして、『こころ』という作品そのものが、「私」の遺書だという大胆な説を展開している。迂闊にも、こういう可能性に気づかずに読み過ごしてしまった私は、若松の鋭い指摘には脱帽あるのみ。
「『私』は、『先生』という人間が存在したことを私たちに語り残そうとしているが、彼が知り得ることのすべてを語るつもりは、最初からない。そうした彼の覚悟にも似た思いと共に『先生』が<自分の生命を破壊して仕舞つた>という言葉を読むとき、そこには詳細に語られる以上の現実が潜んでいることが暗示されている。『先生』亡き後、『私』がしばしば『奥さん』(=『先生』は下宿先の『御嬢さん』を妻とした)を訪れていることも、先の一節は物語っている。また『私』が、かつて『先生』がそうしたように、決まった日に『先生』を墓所に訪ねている様子も、私にはまざまざと浮かんでくる。そこで『私』は『先生』に、かつてあなたが言ってくれたように私も『淋しい』人間だと、耳には届かない声で語りかけたのではないだろうか」。ということは、若松は、「私」も「先生」と同じような裏切りを犯してしまったと見做しているのだ。
「『こころ』は告白の小説である。『先生』が遺書を通じて『私』に告白しただけではない。読者である私たちは、『こころ』の全編が『私』の告白であり、それを読んでいることを忘れてはならないだろう」。
「ある日、『先生』は夜、外出をしなくてはならなくなった。彼は『私』に『奥さん』と一緒に留守番をしてほしいと頼む。二人は、留守番をしていて会話をするほかすることもない。対話が深まるのは当然だった。『奥さん』は自分と『先生』との間には何か不可視な、それも越えがたい障壁があるのを感じると語り始める。『先生』は世間が、さらにいえば人間が嫌いだ、だから、人間である自分も『先生』に好かれているわけはない、そう語る。これを聞いた『私』はその思考と認識の力に感心する。<奥さんの態度が旧式の日本の女らしくない所も私の注意に一種の刺戟を与へた>と『私』はいう。同じところで『私』は、当時の自分は、<女といふものに深い交際(つきあい)をした経験のない迂闊な青年であつた>とも述べている。この頃はそうだったかもしれないが、『先生』のことを語り始めている『私』は違う。彼がこのとき、少なくとも一度は『深い』と感じるような異性との日々を人生で経験していることも逆説的に表現されている。『私』のような人物、ことに『先生』の恋愛事件の意味を知っている彼が『深い』と語る経験が、短い期間に終わった男女関係とはまったく別種の経験であることはいうまでもない」。
「<私は其晩の事を記憶のうちから抽き抜いて此所(ここ)へ詳しく書いた>。・・・この一節には見逃ごすことのできない大きな問題が示されている。<此所へ詳しく書いた>という『此所』とはどこなのか。私たちは『私』の何を読んでいるのか。それが『私』の遺書ではない、と断定するものは、この作品にはどこにも記されていないのである」。
「<先生は美くしい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持つてゐた。さうして其悲劇の何(ど)んなに先生に取つて見惨(みじめ)なものであるかは相手の奥さんに丸で知れてゐなかつた。奥さんは今でもそれを知らずにゐる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、先づ自分の生命を破壊して仕舞つた>。・・・妻の幸福を破壊する前に<先づ自分の生命を破壊して仕舞つた>という言葉にはそうした出来事があったことを充分に感じさせる力がある。また、こうした言葉を読むたびに、『私』は、この言葉を誰にむかって書いているのかという問いから離れることができなくなるのは筆者ばかりではないだろう」。
「『先生』の遺書は、彼の自叙伝でもある。そして、『こころ』の言葉全体が、『私』の遺書である可能性もある。だが、『K』には遺書がない」。この「K」には遺書がないというのは、Kの真情が綴られた遺書がないという意味だろう。
「筆者には『こころ』に記された文字そのものが『私』の遺書だったように思われてならない。読者である私たちは、2つの遺書を読んでいたのではないか。その行間からは、『先生』の(亡くなった)年齢を超えた『私』の姿が、行間からくっきりと浮かび上がるのである」と結ばれている。
若松が大胆な説に辿り着いた背景には、こういう認識があったのだろう。「言葉の奥に、コトバによって刻まれた見えない文字を見出すこと、そこに読み手の重大な役割がある、コトバは、しばしば書き手の意識を超えて働く」。「書物とは、言語によって言語では表現できないものを読み手の心に届けようとする営みである」。
本筋から離れるかもしれないが、男性たちから愛された女性が、その男性たちに及ぼす影響力の大きさをまざまざと見せつけられたことからして、『こころ』は恋愛小説の傑作だと、私は考えている。
私の書斎の書棚には、大正6年に発行された函入りの縮刷『こころ』の復刻版が端坐している。若松の説を頭に入れながら、再読したいと考えている。