朝鮮独立運動の闘士・朴烈の妻・金子文子の苛烈な生涯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1612)】
雨の中でも元気なスズメ、サトキマダラヒカゲ、コイたちに勇気づけられ、本日も10,129歩、歩きました。
閑話休題、『大正ロマンの真実』(三好徹著、原書房)では、大正時代に起こった政変、汚職、殺人、情死など8つの事件が、史料に基づいて発掘されています。
とりわけ興味深いのは、「朴烈(ぼくれつ)・文子(ふみこ)の怪写真」の章です。
「目にしたものがどきッとするような写真と、それを説明する怪文書が、新聞社や各政党に配布されたのは、大正15(1926)年7月29日の午後であった。写真にうつっているのは和服姿の一対の若い男女であった。男は椅子に腰をかけ、右肘を側の机にのせて手を耳のあたりに伸ばしている。そして左手は、膝の上に男と重なるように腰をかけ、カメラに向っている女性の左肩から胸のあたりに垂れている。男の視線はカメラの方を向いているが、彼の膝に後向きに腰をかけている女性は、本か分厚い書類のようなものを両手で持ち、それを読んでいるかのようである。このころは、男女七歳ニシテ席ヲ同ジクセズという道徳観が半ば強制的に社会全体を支配していたから、写真の男女のポーズは、刺激的であり反道徳的であった」。
「写真にそえられた約2500字の説明文によると、この写真は市ヶ谷刑務所の一室で撮影されたもので、男は朴烈、女は内妻の金子文子だ、というのである。二人はこの年の3月25日、大審院特別法廷で、刑法第73条に該当する犯罪を実行したという罪で死刑の判決を受けたが、4月5日に恩赦を受けて無期懲役に減刑されていた。この第73条というのは、俗にいう大逆罪で、天皇、皇后、皇太子などに危害を加えるか、あるいは危害を加えようとしたものは死刑に処すという条文である」。
この写真の存在、撮影に至った経緯、そして、日本の官憲に対して徹底的な反抗を続けてきた無政府主義者の在日朝鮮人・朴と日本女性・文子の思想的背景、主張については知っていたが、本書によって初めて、文子の苛烈な過去を知ることができました。
「佐伯もひどいが、この叔父もひどい。かつては母に売られかけ、父に棄てられ、叔父に追い出され、大正9年4月に彼女(文子)は古小梱一つで上京し、苦学しながらでも自分の人生を何とかして切りひらこうとした」。文子の母・金子きりを入籍していなかった父・佐伯文一は、無責任な男で、文子の出生届を出さなかったため、文子は逮捕されるまで自分の本当の年齢を知らず、無戸籍のまま育ち、小学校にも入れなかったのです。そして、文一はきりの妹・たかのに手を出し、きりら母子3人を棄て、たかのを連れて出奔してしまいます。一方のきりは、次々と男を変え、文子はどの男からも虐待され、小学校に入れなかったが、近くの学校の校長の好意で、何とか授業を受けられるようになりました。きりは文子を三島の遊廓に売ろうとしたこともあります。後に文子を預かった叔父(母の弟・金子元栄)からは処女性を奪われてしまうという惨憺たる境遇です。
文子が朴と会ったのは大正11年2月頃のことで、4月には思想を同じくする同志として同棲を始めました。そして、二人は獄中で正式に結婚します。
文子は大正15年7月22日に覚悟の自殺をしたとされているが、刑務所当局の暴行による死亡かもしれません。一方の朴は戦後に釈放されて韓国に戻り、朝鮮戦争の時に北へ移り、1974年1月17日に病死しました。