ナチの幹部の妻たちは、ユダヤ人絶滅の所行を知っていたのだろうか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2152)】
キリキリキリというカワラヒワ(写真1、2)の囀りで目が覚めました。朝早くから、メジロ(写真3~7)とシジュウカラ(写真4~12)が鳴いて餌の催促をします。それだけでなく、シジュウカラは、落花生を食べ尽くしてしまうと、窓ガラスにぶつかりそうなほど近づいてきて、激しく羽ばたきます。餌を追加しろと言いたいのでしょう。庭の片隅で、ユキヤナギが咲き始めました。
閑話休題、『ナチの妻たち――第三帝国のファーストレディー』(ジェイムズ・ワイリー著、大山晶訳、中央公論新社)では、あまり語られることのないナチ幹部の妻たちにスポットライトが当てられています。
登場する彼女たちのキャラクターは、実にさまざまです。「美貌と、ヒトラーとの特別なつながりによって、第三帝国のファーストレディーとして君臨したマクダ・ゲッベルス。夫の地位と財力を基盤に、ファーストレディーの座をマクダと争いながらも、ヒトラーもしくはナチの思想にはまったくといっていいほど無関心だったエミー・ゲーリング。夫をナチに引き込み、夫が暗殺された後も生来の気の強さを失うことなく、自らの権利を主張し続けたリーナ・ハイドリヒ。ナチ草創期から運動にのめり込み、献身的に党に尽くしたにもかかわらず、夫のイギリスへの飛行後は辛い立場に置かれたイルゼ・ヘス。暴君である夫に虐げられた妻のように見えて、じつは誰よりも筋金入りのナチで、さまざまな意味でナチの理想の妻と母親を体現していたゲルダ・ボルマン。そして本書において特筆に値するには、マルガレーテ・ヒムラーだ。彼女と夫との関係は結婚後数年で破綻したと長く考えられており、彼女について記した本は驚くほど少ない。また、マルガレーテはエミーやリーナとは異なり、夫との関係や生活を自分から積極的に語ることも、自伝の形で発表することもなかった。しかし近年、マルガレーテの日記や夫と交わした書簡が公になったことで、この夫婦がほとんど別居婚の形態をとりながらも、頻繁に手紙をやり取りし、一風変わった結婚生活を維持し続けていたことや、彼女が普段どんな生活を送り、夫や子に対しどんな考えを抱いていたのか、その一端を窺い知ることができる」。実に個性的な女性たちのオン・パレイドです。
「1931年2月の末には、マクダとゲッベルスは深い関係になっていた。最初から、二人の間の性衝動は強く、互いに激しく魅かれ合った。・・・(ヒトラーの腹心の)ヴァーゲナーはマクダにヒトラーの考えを伝え、ヒトラーが結婚に嫌悪感を抱きながらも、妻のような役割を果たせる女性、すなわち知的で情緒豊かな精神的伴侶を持ちたいと考えていると説明した。ヴァーゲナーはマクダが自分の意味するところ(もし彼女がヒトラーと特別な絆を結びたいならゲッベルスとの結婚を考えるべきだ)を理解したと確信すると、難題を受け入れる用意があるかとマクダに尋ねた。マクダは躊躇しなかった。『アドルフ・ヒトラーのためなら、私はすべてを引き受ける覚悟ができています』。ヴァーゲナーの証言を裏づけるものはないが、マクダがヒトラーに夢中になっていたのは疑いようがない。おそらくこの奇妙な三人婚を念頭において、彼女はゲッベルスと婚約したのだろう。・・・しかしゲッベルスはヒトラーに対するマクダの明らかな感情に不安を抱いていた。そして8月に自分の不安を日記に吐露している。『マクダはボスのそばにいるときには少々ぼうっとしている・・・私はひどく苦しんでいる・・・一睡もできなかった』。しかし苦しんでいたにもかかわらず、ゲッベルスはヒトラーから好意を寄せられることを何よりも欲していたので、ヒトラーと対決はできなかった。結局のところ、彼は自分の愛する指導者との関係を断ち切ることはできなかったのである」。
「ゲーリ・ラウバルはヒトラーのミュンヘンのアパート(と彼のベッド)に居を定めてから、さまざまなことに手を出しては失敗していた。そのなかには演技と歌も含まれていた。ヒトラーが留守の間、時間つぶしをするためである。・・・1931年の秋、ゲーリは欲求不満と惨めさに耐え切れなくなった。まだ23歳なのに囚人も同然で、逃げ出したくてたまらなくなっていたのだ。生まれ育ったウィーンに帰って再出発させてくれと懇願したがヒトラーは耳を貸さない。そんなことを考えたと言って叱りつけるだけである。ゲーリは自分がけっして解放してもらえないのだと悟った。9月18日の晩、ヒトラーがニュルンベルクに出かけている間に、ゲーリは護身用に持たされていた銃を取り出し、銃口を胸に当てて撃った。彼女は床に倒れた。銃弾は肺を貫通し、背骨の基部あたりにとどまった。うつぶせになり、ひどく苦しみながら、ゲーリは出血多量でゆっくりと死んでいった」。
「ヒトラーはホフマンの写真スタジオに定期的にエーファ(・ブラウン)を訪ねていた。彼女はまだそこで働いており、ヒトラーは彼女を食事に連れ出したり、ときには映画に連れて行ったり、贈り物をしたりしている。ゲーリはエーファの存在を知っていた。二人は1930年の10月祭で偶然出くわし、ふたことみこと言葉を交わし、不穏なまなざしを向け合ったという。ゲーリの自殺後、ヒトラーとエーファのかなり他愛ない、少しばかり浮ついた関係は、もっと真剣なものに変わった。エーファが気づいていたかどうかはともかく、彼女はゲーリの立場を引き継ごうとしていた」。
「息子ができたことに気をよくし、マルガレーテばかりにさらなる責任を背負わせて、ヒムラーはSS拡大への次なる計画を練り始めた。彼はSSに恐怖と監視の機構を独占させるだけでなく、その犠牲者に対する絶対的な権力をも欲したのである。3月半ばの時点で、この地の刑務所には1万人を超える囚人が詰め込まれていた。過密状態を緩和するため、ダッハウの街はずれにある放棄された軍需品工場が、急ごしらえの強制収容所となった。数週間の間に、ヒムラーはそれをSSの管轄下に置いた。ダッハウを支配下に置くことの目的について、ヒムラーは次のように述べている。ナチの強制収容所はすべて自分に属することになる、と。しかし、ドイツから思想的な敵を追放するという野望が自分をアウシュヴィッツの門へと導くことになるとは、ヒムラーには微塵も想像できなかっただろう」。
「(1945年)4月29日、エーファとヒトラーは結婚した。サイン一つで、彼の秘密の愛人(彼女の存在は大多数のドイツ人には秘密だった)は歴史に自分の居場所を確保し、彼女の名は永遠に生き続けることになった。結婚式の数時間前、ヒトラーは最後の遺言書をしたためた。『私は今、この現世での生活を終える前に、何年にもわたり誠実な友情を続けてきたのち、私と運命をともにするためにほとんど包囲された街に自発的に戻ってきた女性を妻にしようと決意した。私の妻としてともに死んでいくのが彼女の望みである』」。
「マルガレーテは基本的に他人の苦しみを理解することができず、夫が数百万の人々にどれほどの恐怖を与えたか、真に理解するだけの想像力に欠けていた。エミーはナチズムにほとんど関心を示していない。ゲーリングと出会って恋に落ちることがなければ、最後まで舞台で演じ続けていただろう。それが何を意味するかについて彼女が故意に目をつぶっていたのは意外ではない。政権から恩恵を受け、政権の残忍な行為を無視する道を選び、見て見ぬふりをし、自分たちが抵抗せず受動的共犯となったことを正当化した多くのドイツ人の典型である。エミーはナチの過激な反ユダヤ主義には断固不賛成を唱えていたが、迫害が激化した際、彼女はどうすることもできず肩をすくめ、東方で起きていることを自分に都合よく解釈した」。この重い指摘は、私の胸にずしんと響きました。