榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

長らく誤解されてきたアレクサンドロス大王の真の姿・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1615)】

【amazon 『アレクサンドロス大王』 カスアマーレビュー 2019年9月19日】 情熱的読書人間のないしょ話(1615)

今朝、カーテンを開けたら、秋の雲、巻積雲(鱗雲、鰯雲、鯖雲)が広がっているではありませんか。タイワンホトトギス、ノハラアザが薄紫色の花を咲かせています。因みに、本日の歩数は10,807でした。

閑話休題、世界史の教科書『詳説 世界史B』(木村靖二・佐藤次高・岸本美緒著、山川出版社)では、アレクサンドロス3世、いわゆるアレクサンドロス大王は、こう記述されています。「(マケドニアの)フィリッポス2世の子であるアレクサンドロス大王(在位・前336~前323年)は、これまでギリシア諸国の争いにたびたび干渉してきたペルシアをうつため、マケドニアとギリシアの連合軍を率いて禅334年、東方遠征に出発した。大王は、イッソスの戦い(前333年)でペルシア王ダレイオス3世をうち破ったのち、エジプトを征服した。ついでアルベラの戦い(前331年)に勝利してペルシアを滅ぼし、さらに軍をすすめてインド西北部までいたり、東西にまたがる大帝国を築いた。大王が急死した後、その領土はディアドコイ(後継者)と呼ばれる部下の将軍たちによって争われ、やがてアンティゴノス朝マケドニア・セレウコス朝シリア・プトレマイオス朝エジプトなどの諸国に分裂した。大王の東方遠征から、もっとも長く存続したプトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までの約300年間を、ヘレニズム時代と呼ぶ」。

非常に戦上手で空前の大帝国を築いたが、若くして急死したといった知識に止まっているアレクサンドロス大王について、どのような人物だったのか知りたいと考えていたので、『アレクサンドロス大王』(ヒュー・ボーデン著、佐藤昇訳、刀水書房)を手にしました。本評伝は、私の期待にしっかり応えてくれました。

アレクサンドロス大王の事績とされているものは、プルタルコスの『英雄伝』など、「アレクサンドロスの歴史家たち」がアレクサンドロスの死から数百年後に記した著作に基づいています。本書の著者は、「アレクサンドロスの歴史家たち」の著作だけでなく、アレクサンドロスとほぼ同時代の史料群、とりわけ碑文史料や考古遺物、さらにギリシア語以外の言語で記された史料などの最新の研究成果を踏まえ、旧来のアレクサンドロス像に異議を唱え、修正を迫っています。

ギリシアと小アジアにおけるアレクサンドロス。「エフェソス市でアレクサンドロスは、対立する党派間の流血沙汰を妨げるために立ち入らなければならなかった。またキオス島や小アジアのプリエネ市から出土した同時代の碑文には、紛争解決のために行われた同様の試みに言及があり、アレクサンドロスがエーゲ海東岸の諸都市に持続的な秩序をもたらそうと、相当の書簡を交わして仲裁に関与していたことが示されている」。

エジプトにおけるアレクサンドロスは、為政者として合理的に振る舞っていたことが明らかにされています。「エジプトのモニュメントからすると、アレクサンドロスは前任者たちの顰に倣っているように見える。これは、エジプト時代のアレクサンドロスについて記されたギリシア・ローマ側の(『アレクサンドロスの歴史家たち』の)叙述とは大きく異なっている」。

ペルシアにおけるアレクサンドロスは、ペルシア王として、為政者として、合理的に行動していたと、著者は考察しています。

アフガニスタンとパキスタンにおけるアレクサンドロスからは、地域の事情に応じて合理的な政策を展開していく理性的な統治者という側面が浮かび上がってきます。

その後、アレクサンドロスは王都バビロンに帰還するや、32歳で夭折します。彼の死後については、『詳説 世界史B』に記されているとおりです。