ややこしいフランス史理解の手助けをしてくれる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1682)】
シクラメン、ハボタンが季節を感じさせます。
閑話休題、『教養としてのフランス史の読み方』(福井憲彦著、PHPエディターズ・グループ)は、ややこしいフランス史理解の手助けをしてくれます。
フランスの複雑な始まりが、明快に説明されています。「フランスの始まりは、5世紀後半にフランク人(ゲルマン系)によって建国されたフランク王国だとよく言われます。そう言っても間違いではありませんが、フランク王国を建てたフランク人が今のフランス人のルーツとイコールなのかというと、そうではありません。多くの民族が流入した土地柄、フランス人のルーツは複雑なのです。現在のフランスに当たる地域に安定して住み着いたのは、ケルト系の民族集団でした。彼らがいつ頃からこの地に定住していたのかについては、正確な時期はまだわかっていませんが、少なくとも紀元前5世紀には定住していたと見られています。このケルト系の人々こそが、古代ローマ人が『ガリア人』と呼んだフランスの先住民です。ケルト系ガリア人の住んでいた土地に次に入ってきたのはローマ人(ラテン系)でした。ローマの侵攻によって、この地はローマ帝国の一部となります。その後、ローマ帝国にゲルマン系の人々が大挙して流入し、ローマ帝国は衰退。フランク人(ゲルマン系)の王国『フランク王国』がこの地に誕生します。フランク王国はカール大帝の時代(8世紀後半から9世紀前半)に最盛期を迎え、現在の西ヨーロッパのほぼ全域にその版図を広げます。しかし大帝の死後、フランク王国は『西フランク王国』『中フランク王国』『東フランク王国』の3カ国に分割され、この3カ国が、それぞれ後のフランス、イタリア、ドイツの母体となっていきました。つまり、フランス人のルーツはケルト系ガリア人であると同時に、ラテン系ローマ人であり、ゲルマン系フランク人でもある、と言えるのです。もっと現実的に言えば、その後も周辺各地や植民地から多くの移民が流入しているので、これらの他にも多くの民族が現在の『フランス人』の源流に存在していると言えるでしょう」。
フランスとイギリスはなぜ百年も戦ったのでしょうか。「『百年戦争』という名は、戦端が開かれた1339年から、フランスが港町のカレーを除いてイングランド軍を大陸から完全に駆逐した1453年までの期間が、約100年だったことに由来しています。とはいえ、この100年間、もちろん毎日ずっと戦闘が行われていたわけではありません。両者の争いは間欠的に約100年ほど続いていた、というのが正しい表現でしょう。・・・この戦いの発端が後継者争いであることは間違いないのですが、単純に(フランスの)フィリップ六世が継ぐか、(イングランドの)エドワード三世が継ぐか、という問題に止まらなかったからです。実はフランス国内でも、フィリップ六世の流れを汲む王家を支持するアルマニャック派と、ヴァロワ家の分家ブルゴーニュ家を支持するブルゴーニュ派が、王位を巡る争いを繰り広げ、国を二分する内乱に発展してしまうのです。ですから『英仏百年戦争』と言われますが、この表現自体も19世紀に言われ出したことで、現代の国家間の戦争とは、まったく違ったものだということを踏まえておく必要があります。百年戦争は、フランスにとってはイングランドとの戦争というだけではなく、内線でもあったのです。もっと簡単に言えば、関係した主要登場人物の多くに何らかの血縁関係があるので、『相続争いに絡んだ王位継承と勢力範囲の拡大争い』と言ったほうがわかりやすいかも知れません」。
カール・マルクスらに無能扱いされたナポレオン三世(ナポレオン一世の甥、ルイ・ナポレオン)だが、近年、その評価が高まっているというのです。「(ルイ・ナポレオンが)政治的な力を持って台頭してくるとは、周りの政治勢力は誰も思っていなかったはずです。まさにダークホースだったのです。では、なぜルイ・ナポレオンにこれほどの人気が集まったのでしょう。その最大の要因は、やはり『ナポレオン神話』なのだと思います。民衆、特に農民たちの間には『ナポレオンは自分たちに土地を与えてくれた良き為政者』だというイメージが強く残っていました。その言わば『伯父の遺徳』のおかげで、ルイ・ナポレオンは大統領に選出されることになるのです」。
「同時代のドイツの経済学者マルクスは、この一連の動きを、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(カール・マルクス著、植村邦彦訳、平凡社ライブラリー)の中で『ボナパルティズム』という言葉を使って批判しています。ボナパルティズムとは、ナポレオン・ボナパルトによる帝政が崩壊した後に、再び彼の血縁者を皇帝に据えようとする政治運動のことを意味する言葉です。マルクスは、ルイ・ナポレオンの能力は評価せず、そんなつまらぬ人物でも、官僚機構や軍隊など、いわゆる国家機構を利用して権力を掌握し、人民投票で民主的手続きを装い、保守的な田園部を基盤に国民支配を実現できるものだ、と揶揄したのです」。
「マルクスの批判とは論点が違いますが、ナポレオン三世による第二帝政の評価は、少し前までは歴史学の世界でも、『時代錯誤的な政権』と考えるのが一般的でした。つまり、ブルジョワジーは単独で統治する能力を失い、市民・民衆にはまだ政権を掌握する能力が育っていない、そうした過渡期における隙間に、まんまと権力を掌握した時代錯誤的な政権だという評価です。しかし、近年になってこの評価は変わってきています。確かにナポレオン三世の権力奪取の仕方は、いかにも人心を操作したやり方で褒められたものではありませんが、彼が行ってことは、今風に言えば、ある種の『開発独裁』なのではないか、という見方がされているのです。開発独裁というのは、いわゆる開発途上国で独裁的権力を持った政治勢力が、国民の民主的な政治参加を制限した状況で、上から急速に開発を推し進めることを言います。たとえば独裁者が、外資などを導入して開発を急速に進めたり、非常に強い行政権を発動して民衆を抑圧してでも開発を促進するような状態のことです」。実際、ナポレオン三世は、銀行家や経済学者を起用して金融の発展を後押しし、強い行政権のもと殖産興業を薦め、工業化を推進するだけでなく、さらに、産業界の反対を押し切って、自由貿易協定を実現させるなどして、フランスに繁栄をもたらしたのです。「経済発展と海外展開を背景にナポレオン三世は、帝都パリの持つ『芸術文化の都』というイメージをさらに強化していきます」。