読書家であった徳川家康は、どんな本を読んでいたのだろうか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1734)】
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閑話休題、『戦国大名と読書』(小和田哲男著、柏書房)では、多くの戦国武将たちの読書が考察されています。
戦国武将がどのような本を読んでいたかが一番よく分かるのは、徳川家康のケースです。
「信長・秀吉の二人との決定的な違いは、先に走った二人にくらべ、家康が読書家だったこと、特に歴史の本を読んでいたことにある。家康は歴史に学んでいたのである」。
「(家康の私設図書室である)駿河文庫の蔵書は1千余部、約1万冊に及んだといわれ、その主なものを和書と漢籍で分けると次のようになる。和書=『日本書紀』『続日本紀』『延喜式』『吾妻鏡』『建武式目』『源平盛衰記』、漢籍=『貞観政要』『周易』『論語』『中庸』『大学』『六韜』『三略』『史記』『漢書』『群書治要』。歴史書以外にも、中国の政治論書や兵法書などを幅広く読んでいたことがうかがわれる。もちろん、本を持っているからといって、そのすべてを読破したということにはならないが、家康の場合は、実際に手に取り、かなり読んでいたのではないかと思われる」。
「これ(『吾妻鏡』)が家康の愛読書のナンバーワンではないかと思われる。『頼朝を常々御咄に被仰候』というのは事実であろう。家康が幕府を、京都でもなく大坂でもなく江戸に置いたのは、豊臣秀吉の小田原攻め後の論功行賞によって、家康の所領が関東になったことも関係してはいるが、頼朝によって始められた鎌倉幕府を強く意識していたからであった。読書は、このような形で家康の政権構想と深く関わっていたのである」。
「家康は戦国時代を代表する蔵書家であったが、それに匹敵する蔵書家がもう一人いた。上杉景勝の執政として知られる直江兼続である。そして、意外なことに家康と兼続は、それぞれの蔵書を通じて交流があった。・・・(関ヶ原の戦い後)家康は兼続の蔵書に注目し、所蔵の問い合わせをしているのである。・・・『蔵書家兼続なら持っているのではないか』と思ったわけで、それだけ兼続がたくさんの本を持っていたことが広く知られていたことを物語っている。関ヶ原の戦いの時には奥州で戦った相手ではあるが、この頃には、そのわだかまりも消えていたのであろう。同じ、本を愛する仲間として見ていたものと考えられる」。
さらに、家康は出版事業も手がけていたというのだから、驚くではありませんか。「家康は天文18(1549)年から永禄3(1560)年までの11年間、今川義元の人質として暮らし、その間、太原崇孚、すなわち雪斎という高僧の指導を受けて育ったが、その雪斎が『駿河版』と呼ばれる印刷事業を行っていたのを間近で見ていた。・・・(戦国争乱に終止符を打った家康は)文治政治を一つの柱にしようとしており、出版事業を推進している。・・・(京都の伏見で)10万余の木版活字を作り、印刷事業を始めさせているのである。場所が伏見であることから、この時、印刷された書籍は『伏見版』と呼ばれ、7種11版が、慶長4(1599)年から同11(1606)年にかけて刊行された。・・・(将軍職を秀忠に譲った家康は)駿府でさらに出版事業を推進する。それが『駿河版』である。奇しくも、家康自身が今川氏人質時代に目にした『駿河版』の再現ということになる。『伏見版』は木版活字であったが、『駿河版』は銅板活字を鋳造させている」。
こう見てくると、読書が家康に天下を取らせたという著者の指摘は、強い説得力がありますね。