榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

頽廃した共和国よりは良く統治される君主国の方が好ましい・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2585)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年5月16日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2585)

ヤマボウシ(写真1)、ミッキーマウスノキ(オクナ・セルラタ。写真2)、キングサリ・ヴォッシー(写真3)、ゴクラクチョウカ(ストレリチア・レギナエ。写真4)、シラン(写真5~7)が咲いています。シランが実を付けています(写真6)。キノコ(写真8)の鮮やかな橙色が目を惹きます。

閑話休題、論文集『マキアヴェッリの独創性――他3篇』(アイザイア・バーリン著、川出良枝編、岩波文庫)に収められている『マキアヴェッリの独創性』では、著者独自のマキアヴェッリ論が展開されています。

いささか難解な論文であるが、私の理解したところでは、バーリンの主張は、こういうことのようです。

●マキアヴェッリにとって、支配者が必要とされるのは、さまざまな利益に支配されている諸々の人間集団を統制し、それらの間の安全と安定、そしてとりわけ敵に対する保護を実現し、人々の必要と欲求を満足させることのできる唯一の社会組織を樹立するためには、こうした作業をする人物が要請されるからである。支配者がこうした目的を達成するためには彼らが個人的にも社会的にも健全である必要がある。適切な教育だけが、秩序、権力、名誉、成功を目ざして有効に共同作業するのに十分なほどの肉体的・精神的逞しさ、活力、大望、エネルギーを彼らに与えることができる。

●マキアヴェッリ個人は自由と共和主義的統治を望ましいとする論拠を持っていたが、しかし弱体な共和国よりも強力な君主(ヴァレンティーノ公や、もし彼の祈りが本心であるならばメディチ家でさえも)の方が好ましいという状況もある(ヴァレンティーノ公とは、チェーザレ・ボルジアのことである)。

●キリスト者にふさわしい生活を営むという選択をすることは、自らが政治的に無能であることを宣言するに等しい。つまり彼は強力で、野心的で、抜け目のない、良心を欠いた人間によって利用され、押しつぶされることになる。他方もしアテナイやローマの如き栄光に満ちた共同体を可能な限り実現しようと欲するならば、その人はキリスト教的教育を放棄し、自らの目的によりふさわしい教育をそれに代えなければならない。マキアヴェッリは、キリスト教徒は「害悪に対して復讐するよりもそれを耐え忍ぶことに心を用いた」がために、キリスト教信仰は人間を「柔弱」にし、簡単に「邪悪な人」の餌食になる結果を招いたと語っている。キリスト教の教えは一般に公民の精神を破壊し、人々が不平を言うことなく屈辱を忍ぶように仕向けた。その結果、国家を破壊する者や専制君主はほとんど抵抗に出会わないことになった。したがってこの点に関する限りキリスト教は、人間をより強く、より「残忍に」するローマの宗教と比べて好ましくないものと判断される。

●マキアヴェッリは統治について論ずる人間であり、公的領域に、天上ではなく地上の安全と独立、成功、名誉、強さ、勢い、幸福に関心を注いだ。こうした観点から、過去と同様現在と未来に、空想の世界にではなく現実の世界に目を向けた。人間の持つ限界が変わらない限り、キリスト教会の教える掟は、それが真剣に受け取られるならば、このような彼の関心にとって何ら寄与するところがないであろう。

●マキアヴェッリは支配者の利益が被支配者の利益と矛盾しない、共和政的統治に好意を示した。しかし彼は頽廃した共和国よりは良く統治される君主国の方を好ましいと考えた。彼の称賛する資質と永続的な社会に接合可能な――実際不可欠な――諸々の資質とは、精力、大胆さ、実際上の技巧、想像力、活力、自己訓練、抜け目なさ、公共精神、幸運、古人の徳、有能さ、逆境における堅忍不抜、性格の強さなどがそれである。