榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

織田信長の桶狭間の戦いの勝利も、長篠の戦いの勝利も、実は、偶然の産物だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2021)】

【amazon 『信長徹底解読』 カスタマーレビュー 2020年10月26日】 情熱的読書人間のないしょ話(2021)

千葉・柏の「あけぼの山農業公園」では、コスモス、キバナコスモスが見頃を迎えています。ベニシジミ、キタキチョウをカメラに収めました。

閑話休題、『信長徹底解読――ここまでわかった本当の姿』(堀新・井上泰至編、文学通信)は、織田信長の実像を歴史学の立場から、虚像を文学の立場から、各分野の研究者が最新の研究成果を踏まえて論じています。

実像に関心がある私は、桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変に注目しました。

「永禄3(1560)年5月19日の桶狭間の戦いは、奇襲作戦ではなく、正面攻撃による勝利という評価が確立している。・・・わずか2千の織田軍がなぜ2万とも4万5千ともいわれる今川軍に勝利できたのか判然としない。・・・桶狭間の劇的な勝利は、いくつかの偶然と戦国武将の心性が原因であった。それは、①(今川)義元が大高城から武者舟による伊勢・志摩侵攻を目指したこと、②信長は尾張素通りに激怒し、軍議もなく突然出陣したこと、③思いがけない信長の出陣に、義元は作戦を一時変更して鳴海城方向へ前進したこと、④信長は目前の今川軍をくたびれた武者と誤解したまま、家臣の制止を振り切って正面攻撃したこと、であると考える。今川軍の油断(酒宴)はその事実を確認できず、天候の変化は事実としても、劇的な勝利の象徴表現だろう。(信長の家臣)千秋・佐々と同様に、信長に計算された作戦はなく、戦国武将の心性にもとづく軍事行動が勝利を呼んだのである」、信長のデビュー戦ともいうべき桶狭間の勝利は、実際は偶然の産物であったというのです。

なお、信長が出撃直前に舞った「敦盛」は、舞(幸若舞)であって、謡(能)ではなかったと強調されています。悠長な謡ではなく、命懸けの戦いに臨むのにふさわしい、力感とスピードのある幸若舞だったというのです。

「天正3年に起きた長篠の戦いは、織田信長が鉄砲を効果的に用い武田氏の騎馬軍団を撃破した闘いとして著名であった。しかし近年の研究の進展により見方が変わりつつある。以前より鉄砲戦術について疑問が提起されていたが。最近はそれもあって『三段撃ち』はほぼ否定された。・・・長篠の戦いといえば、鉄砲によるいわゆる『新戦術』によって織田・徳川軍が大勝利を収めたという歴史像が浸透し、それが強固になっているので、いかにも信長が最初から馬防柵を構築して鉄砲によって武田軍を撃破しようと企み、武田『騎馬軍団』がその術中に見事にはまったかのように受けとめられがちであるが、実際の流れを見てみると、結果的にこのような戦いになったということがわかるだろう。ことここに至ったのには、いくつかの判断の分かれ目がある。大岡弥四郎の陰謀露見による武田軍の攻撃目標変更、吉田城攻めから長篠城包囲への転換、信長の対本願寺重視による兵力温存のための陣城構築などである。最終的に敵情を見誤った(武田)勝頼の過ちがそこに重なった。このいくさにおける信長の戦術を評価したいのであれば、馬防柵構築や鉄砲の効果的な利用ではなく、勝頼の過ちを見逃さず、『あるみ原』に布陣した武田軍を見て、その背後を襲うため鳶の巣砦攻めを即座に決断した、(合戦前日の5月)20日の判断をあげるべきだろう」。この長篠の戦いの信長の勝利も、桶狭間同様、必然性より偶然性が高かったというのです。

「本能寺の変の原因は、『謎』のままである。ただ、信長・信忠がわずかな供をつれて滞京した一瞬の隙を、(明智)光秀は逃さなかった。信忠も討ち取られたことで、織田政権の命脈は絶たれた。明智光秀はその時点まで大成功している。また、信長の苛烈な戦い方を、忠実に見習っていたのが光秀であったことも明らかになってきている」。

光秀が果たした歴史的役割に言及されています。洛中洛外に築城するという発想だけでなく、「石高による軍役の賦課基準の設定も、光秀から(豊臣)秀吉へと継承されていく。以後、秀吉は、太閤検地を実施するなかで、こうした軍役体制が整備され、この後の全国統一、そして朝鮮出兵を可能にさせていった。その意味で、秀吉は信長の地位を継承しつつも、光秀から学んだ点も多かったのではないだろうか」。

信長の虚像がどのように生まれ、変遷してきたかに興味がある向きにも、学ぶべきことの多い一冊です。