メソポタミア文明とインダス文明は相互補完関係にあったという大胆な説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(359)】
我が家の庭の片隅でモチツツジの園芸種のハナグルマ(花車)が鮮やかな薄紫色の花を咲かせ始めています。散策コースでは、フジの薄紫色の花が甘い香りを漂わせていました。シロヤマブキが白い花を付けています。桃色と赤いクルメツツジが競い合っています。赤いレッドロビンと桃色のクルメツツジがカラフルな平行線を描いています。因みに、本日の歩数は10,795でした。
閑話休題、『メソポタミアとインダスのあいだ――知られざる海洋の古代文明』(後藤健著、筑摩選書)は、古代文明論の定説に真っ向から挑戦した大胆な書です。世界史の授業で世界四大文明――メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明――はそれぞれの地域で個別に発生したと習いましたが、これは間違った教えで、メソポタミア文明とインダス文明は、物資の輸送を担ったアラビア湾の海洋民らを仲介にして、己の地域では生産できない必要物資を融通し合う相互補完関係にあったというのです。
古代文明についての定説とは、どのようなものでしょうか。「過去の研究の多くは、古代文明の起源を、灌漑農耕による生産性の飛躍的な向上、それによって生まれた余剰の蓄積、それを可能とした労働力の集中と社会的・政治的ヒエラルキーの確立などの面から、説明することが多かった。これらは文明の成立過程をその地域社会に特有の歴史的事象として大きな矛盾なく説明しているように見える。しかし何ゆえ文明すなわち都市社会がこの地に興らざるをえなかったのかという必然性、何のために都市のヒエラルキーは作られたかという目的について、十分な説明とはなっていないように思われたのだ」。
世界最古の文明、メソポタミア文明とは、どのようなものだったのでしょうか。「メソポタミアはティグリス、ユーフラテスという2つの河によって形成された、延々と続く肥沃な沖積地であり、河水の利用が技術的に可能であれば、農耕にはこの上ない環境であった。石器時代の最終段階には、この地に灌漑技術が導入され、農耕生産が大いに発達したであろうことは疑いがない。しかし域内、特に南メソポタミア(バビロニアとも)では、木材・石材・金属・貴金属・宝石・貴石などはほとんど存在しない。ゆえに文明成立に前後する時期に銅製品や金、ラピスラズリのような遠隔地産物資が出現する事実は、この文明の起源を域外との強い関係で説明する必要を生じさせる。文明の起源はメソポタミアの域外、それも相当遠隔地まで含めた広域の情勢を視野に入れなければ、説明することができないのだ」。
メソポタミアは、己の地域で生産できない必要物資を、どのようにして入手していたのでしょうか。「メソポタミアが文明であるためには、その遠隔地産物資の供給者が存在し、かつ交渉相手となりうるだけの文明度を具えていたに違いない。蛮族が相手では、交渉は不可能だからだ。現在知られるメソポタミア最古の文書の中には、イラン高原とアラビア湾方面からの物資供給が記されている。これら2方面こそが、初期のメソポタミア文明を支えた遠隔地物資の主要な供給路であった」。
メソポタミアへの必要物資の供給ルートは、それらを全て自前で確保していたのでしょうか。「イラン高原とアラビア半島の湾岸部という2つの地域に共通するのは、メソポタミアに存在しない必要物資を自前で確保するか、あるいはより遠方の地域から調達し、それを必要とする消費者に供給することができるという利点であった。そこでの古代人の活動は、メソポタミアとの自然環境の違いによるものであり、ある面においてそれが有利に作用したということを無視して考える訳にはいかない。人口や農産物の多寡という面ではおよそ比較にならないが、メソポタミアでは農産物以外の必要物資があまりにも乏し過ぎた。それに対して2つの隣接地域はあまりにも都合よくそれらを満たすことができた代わりに、農産物は極端に乏しかった」。
メソポタミアは、イラン高原の陸上ネットワークと、アラビア湾の海上ネットワークのいずれをも必要としたのです。
さらに、「この文明が自己完結するものでなかったことは明らかだが、それらを正しく理解するためには、イラン高原と湾岸だけでなく、それらの延長にある中央アジアやインダス河流域における古代文明の興亡をも視野に入れざるをえない」というのです。
本書で頻出する「千年紀」という年代の単位は、「世紀」(100年)の10倍を意味します。例えば、「前4千年紀」とは、「紀元前4000年から紀元前3001年までの1000年間」ということになります。
古代文明の探究に必要な考古学と文献史学を駆使した著者の説は、一見大胆過ぎるように見えますが、有無を言わせぬ説得力があります。