女陰切除・男子割礼を野蛮だと非難するのは、許されることだろうか・・・【情熱の本箱(301)】
『われらみな食人種(カニバル)』(クロード・レヴィ・ストロース著、渡辺公三監訳、泉克典訳、創元社)は、クロード・レヴィ・ストロースの没後に編集・出版されたエッセイ集である。
1989年に書かれた「社会の諸問題――女陰切除と補助生殖」が、レヴィ・ストロースの民族学者としての考え方を分かり易く示しているように思われる。
「世界各地で女陰切除や男子割礼が行われている(そして、多くの場合これら2つの慣習は対となっている)が、根底に横たわる理屈はまったく同一だと思われる。すなわち、創造主が性の区別を作り出そうとしたとき、その仕事をうまくやりとげることができなかった。仕事の最中に急ぎすぎたり、疎かにしたり、邪魔が入ったりして、女性に男らしさの、男性に女らしさの痕跡が残ることになってしまった。クリトリスや陰茎包皮の切除は結果的に、各性別に残存する不純な部分を取り除き、2つの性別をそれぞれの本性にふさわしいものにすることで、創造の仕事を仕上げる効果を持っている。この形而上学や考え方はわれわれの世界には無縁のものである。それでも、その論理一貫性を認めることはできるし、その偉大さや美しさに無感覚でいられるわけでもない」。
「人種差別的偏見を法的に有効なものとしてしまうよりはむしろ、ある何らかの文化複合で意味をなさない慣習が別の文化複合では意味を持つこともありえると示すことに、民族学者なら力を尽くすだろう。なぜなら、複数の信仰体系のうちのたったひとつ(もちろん、われわれの体系のことだが)だけが普遍的価値を持ち、誰にもそれをあてはめてしかるべきだと――しかし、何を基盤にするというのだろう――言い張るのでもない限り、数々の信仰体系に裁きを下したり、ましてや有罪を宣告したりできる共通の尺度は存在しないからである。・・・異なる道徳から課された慣習に単に従っているだけの人々を、ある個別の道徳の名において処罰することは誰にもできない」。
「現在では、片方もしくは双方が不妊に悩まされている夫婦に対して、子をもうける方法がいくつも提案されている。人工授精、卵子提供、代理母出産、夫もしくは別の男性の精子や、妻もしくは別の女性の卵子の試験管での受精などがそれにあたる。これらすべてを是認すべきだろうか。いくつかの方法は許可し、それ以外の方法は拒否すべきだろうか。そうはいっても、判断基準はどうするのだろうか」。
「ところが、民族学者だけはこうした類の問題に面食らわずにいられる。民族学者の研究する諸社会は、試験管受精や、卵子や胚の採取や譲渡、移植、冷凍などの近代的技術をもちろん知らない。だが、こうした社会では、そうした技術の比喩的な等価物が考案されてきた。・・・われわれはこうした事例を通じて、補助生殖が提起した問題には少なくともそれぞれ別々の相当な数の解決策があって、そのどれかが自然で自明だとみなされるべきではないという考え方に親しむことができる。・・・それぞれの社会の制度や価値体系がそなえる内的論理に信頼を寄せることこそ叡智である。ただ習慣だけが、長い時間を掛けたのちに、集合意識が受容したり拒絶したりするであろうものを示すことができる」。
すなわち、レヴィ・ストロースは、女陰切除・男子割礼と補助生殖という事例を通じて、自分たちの社会では受け入れ難い慣習だからといって、否定したり非難してはいけないと言っているのだ。われわれの社会とは異なる社会が、長年培ってきた、われわれとは異なる文化を持ち、われわれとは異なる価値体系を持っているからといって、それを貶める資格は、われわれの誰にもないからである。