幕末の幕府内に、勝海舟を抜擢し、大政奉還・開国を主張した傑物がいた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1741)】
ツバキが白い花、赤い花を咲かせています。ソシンロウバイが満開を迎えています。ラクウショウの気根(呼吸根)は木の地蔵のようです。因みに、本日の歩数は12,445でした。
閑話休題、大久保忠寛(一翁<いちおう>)は幕府内における勝海舟の数少ない賛同者だったという印象しかなかったが、『勝海舟を動かした男 大久保一翁――徳川幕府最大の頭脳』(古川愛哲著、グラフ社)を読んで、思っていた以上の途方もない傑物であったことを知りました。
「揺れる(幕末の)幕府の地盤を敏感に感じ取り、単身、すっくと立ち上がった譜代の旗本がいます。私たちのよく知る幕末維新の英雄たちの誰からも尊敬された旗本でした。激動の幕末維新期、徳川幕府最大の頭脳――それが大久保一翁、その人です」。
薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允、周布政之助、土佐の坂本龍馬。公家の岩倉具視などが全員、声を揃えて、「幕府では大久保一翁と勝海舟」と名を挙げたと記されています。
「勝海舟を見出し、世に送り出し、縦横に活躍させたのは。ほかならぬ大久保一翁でした。大久保一翁は、4代の将軍に近侍した幕府の高級官僚です。片や勝海舟は三十俵の微禄で非役の一蘭学者。一翁なくして、幕末維新期の海舟の活躍はあり得ませんでした。まだ身分制度の厳しい時代、一翁は市井の蘭学者に過ぎない海舟を大胆にも幕府に取り立てただけでなく、活躍できるように出世させ続けたのです。幕臣となった海舟の口から飛び出す驚くべき言葉のかずかずは、諸藩の志士を魅了しただけでなく尊敬もさせました。その海舟の大胆な言葉を作り出した思想は、実は一翁から授けられたものです」。
「大久保一翁の最大の功績は、幕府の中枢に身を置きながらも保守的にはならず、大局を見る豊かな感性があったことです。私心を捨て、広く意見を聞き、その感性をもって深く洞察して結論を出すと、その主張を公言して憚りませんでした。その一つが、諸藩の重役や志士を驚かせた『大開国論』です。『大開国論』とは要約すれば、『朝廷に日本の現状を説明して、それでも攘夷と言うならば、幕府が政治を独占することをやめ、朝廷を中心として諸侯も一つとなり、大小公会議を開き、衆論に基づいて公明正大に国是を決定して、開国に向かうべき。そのためには徳川家は、祖先(家康)の旧領、駿河・遠江・三河の一大名になってもかまわない』というものです。この思想に含まれる『大政奉還』『大小公会議』『国是(憲法)』のいずれも、薩長による討幕運動が始まる前に主張したものです。そうしなければ『徳川家は潰れる』と、一翁は断言しました。勝海舟を師とした坂本龍馬の『船中八策』、『大政奉還論』も一翁の思想を実践したものに過ぎません。それに先立つこと5年以上も前に一翁は『大開国論』を展開していたのです。この事実は,まったくと言っていいほど語られていません」。
さらに驚くべきことが書かれています。「実は、2回行なわれた(隆盛と海舟の)会見の1回には大久保一翁も列していました。でなければ、もはや決定事項であった江戸城総攻撃を中止させることなどできません。そして江戸城無血開城の儀式は一翁がすべて取り仕切り、勝海舟はもっぱら一翁の命を受けて江戸城の外で事態収拾に奔走したのです」。
維新後、人材不足の明治政府から出仕を乞われても、一翁は断り続けます。しかし、「ついには東京府知事として一翁は旧江戸の住民を守り、ついで元老院議官に任ぜられて国政に参加し、海舟とは終生、刎頸の交わりをしましたが、(幕末には)あれだけ雄弁だった人物が、晩年はすっかり沈黙してしまいます」。維新後も、巻き舌で雄弁に語った海舟とは異なり、一翁は自身の知る幕府の内実を明かすことを避けたのだろうと、著者は推考しています。