日本にも、世界的に通用する経済学者がいたとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1759)】
女房のお供でショッピング・センターを訪れても、私は退屈しません。興味深い撮影対象に出会えるからです。因みに、本日の歩数は10,251でした。
閑話休題、『厚生と権利の狭間』(鈴村興太郎著、ミネルヴァ書房)を読んで感じたことが、3つあります。著者が研究自叙伝と呼んでいるように、本書では自伝と研究履歴が交互に展開されていきます。
感じたことの第1は、ミクロ経済学に、社会資源の配分はどうあるべきかを研究する厚生経済学という分野があることを知り、未知の学問領域に触れる喜びを味わえたこと。過去に、これと同じような経験をしたことを思い出しました。それは、大学のゼミで、関寛治から国際政治学のゲーム理論を学んだ時です。
厚生経済学の任務は「人間生活の改善の道具」を鍛えることだと考える著者は、厚生経済学に「鈴村整合性」という独自の社会選択理論を導入することによって、この学問に新局面をもたらしました。感じたことの第2は、日本にも世界的に通用する経済学者が存在したという嬉しい驚きです。
感じたことの第3は、著者が研究者として成長する過程で、組織における人間関係で、著者が言うところの「冬の時代」を過ごさざるを得なかったという事実の重みです。
「私が最初の職に就いたのは、1971年5月のことだった。(母校の)一橋大学経済学部の専任講師職である。・・・(1973年4月、京都大学経済研究所から懇望されて)私は2年間在籍した母校の経済学部を離れて、なんら縁がなかった京都大学経済研究所に助教授として移籍することになったのである。・・・(10年間を過ごした、居心地のよい)京都大学経済研究所に別れを告げて、あらかじめ送った大量の図書・文書を追うように私が国立(くにたち)の一橋大学経済研究所に赴任したのは、冷雨が終日降り続く暗鬱な日だった」。一橋大学経済研究所の著名な教授の懇請を受けての移籍だったのに、ここから「冬の時代」が始まります。
「冬の時代」に突入したが、「背筋をピンと伸ばして生き抜く勇気を私は奮い起こ」し、「理不尽な組織の内部に留まって、組織の改革のために粘り強く発言を続ける」道を選択します。「内部から発言し続けるこの選択肢を採用するに際して、無原則な妥協と撤退を自らに禁じるために、3つの規律を私は自己に課した。第1の規律は、私が駆使する唯一の武器は公開可能な発言に限ること、いかに理不尽な処遇に直園しても、同じ地平に立つ報復は禁じ手とすることだった。第2の規律は、不公正な処遇がいかに研究を疎外する状況になろうとも、それを研究の停滞の言い訳にせず、国際的な水準の研究を継続する努力を維持し続けることだった。第3の規律は、グローバルな視野からは所詮小さな存在にすぎない研究所に埋没せず、アカデミックな国際公共財の供給に可能な限りで貢献することだった」。第2の規律に忠実に従って、著者は目覚ましい研究成果を上げ続けていきます。
私にも、組織で何度か「冬の時代」を過ごした経験があるが、著者の覚悟と行動には脱帽です。