ナイル河の水源発見競争を繰り広げた探検家たちの人間臭い物語・・・【情熱の本箱(315)】
ナイル河の水源発見に挑んだ19世紀の探検家たちの物語は、私の冒険心を激しく掻き立てる。この意味で、『白ナイル――ナイル水源の秘密』(アラン・ムアヘッド著、篠田一士訳、筑摩叢書)は、欠かすことのできない一冊である。
探検する側でも、現地アフリカで生活を営む人々の側でも、数多くの人物が登場するが、とりわけ興味深いのは、激烈なナイル水源発見競争を繰り広げたリチャード・フランシス・バートンとジョン・ハニング・スピーク、奴隷制廃止とナイル水源捜しに情熱を注ぎ続けたデイヴィッド・リヴィングストン、長らく行方不明であったリヴィングストンを捜し当てたヘンリー・モートン・スタンレイの4人である。
「(ナイル水源はどこかという)疑問に答えるために、二人の探検家が1856年にアフリカへ旅立った。リチャード・フランシス・バートンとジョン・ハニング・スピークである。彼らはエジプトからナイル河を遡航するコースをとらないで、ザンジバルから西へ向かって、白人がまだ全然入ったことのない暗黒地帯へ進んだ。この新しい探検とともに、中央アフリカ探検の輝かしい時代がはじまる」。
「(ザンジバルでは)奴隷の姿が見られるのだ。奴隷には男もいれば女もいる。いや子供までいる。連中は町中をぶらぶらうろついているが、長年奴隷の状態にあったためにおとなしくなってしまったものもいるし、内陸地帯からやってきたばかりで飢えとむごい仕打ちのために半狂乱になったり半死半生の状態になったものもいる。彼らは素裸で。歯が全部とがってしまい、体に瘢痕ができたみじめな姿をして、まともな人間というよりは、生け捕りにされたけもののようであった」。「アラビア商人のキャラバンはいぜんとして内陸地帯へ掠奪に向かい、甲板の下に奴隷をぎっちりつめこんだアラビア帆船は今なお軍艦の封鎖をたくみにすり抜けていたのである。ザンジバルの奴隷市場は相変わらずの活気を呈していた」。
「(バートンは)当時36歳になったばかりであった。その後半生は、波瀾に富んだ幾多の旅、争い、汚辱に満ち、またさまざまな本や翻訳書をやたらに出版したあげく、『千夜一夜』とか東洋的な好色ものの出版で知的道楽者の名を馳せたりしたが、目下の関心はそちらにはない。・・・この明敏、勇敢な、張りつめた弓弦のような探検家が、ジョン・ハニング・スピークのような全く対蹠的な男を相棒に選んだということは、セルバンテスがドン・キホーテとサンチョ・パンサの取り合わせで目論んだことに類する皮肉な現象に違いない。スピークがいつでもバートンに従属していたわけではない。否、事実はその逆で、スピークは最後にはバートンの破滅の原因となったのである。バートンは弟子を必要としたのに、じっさいには敵を得たのであった。スピークは30歳でバートンより6つばかり若く・・・将来の計画を立て、明確な目標をすえ、いったん決心したら非常な慎重さと決断とももって着手するのだった。要するに彼は、青年はすべからく着実、節制を宗とし、規律ある習慣を身につけて品行方正たるべしという、ヴィクトリア朝的青年観にうってつけの男だった」。
「爾来、バートンはいよいよ(ナイル水源と睨んだ)タンガニーカ湖に凝り、スピークはヴィクトリア湖に熱中するようになった。互いに自分の選んだ湖に固執してどんな議論をしてもゆずらなかった。彼らの諍いは不毛に見えるかも知れないが、二人がこの最も危険な環境の中で同居するようになってからすでに1年以上を経過し、前々からお互いに神経に触わり始めていたことを思い出す必要がある。それに、この諍いは当時の二人のほとんど全世界と言ってもよく、焦眉の問題と思われた」。
「バートンの『中央アフリカの湖水地方』が1860年に現われ、1863年にはスピークの『ナイルの水源の発見日誌』に引きつづいて同じく『ナイルの水源を発見に導いたもの』が出た。・・・(1864年には)バートンは地理学者のジェイムズ・マックウィーンと共著で『ナイル水域』を出版した。以下バートンの『ザンジバル』とつづいた」。
「しかしやがて(スピークにとって)もっと強敵が現われた。偉大なリヴィングストン博士である。リヴィングストンは、バートンのように、ナイルの水源が本当に解決をみるのはヴィクトリア湖と赤道の南においてであると確信していた」。
独身であったスピークはバートンとの論争中に、37歳の若さで、銃の暴発による事故死を遂げてしまう。
「われわれはリヴィングストンを老人のように思いがちであるが、彼が1865年に最後の遠征に出発したときは、まだ52歳にすぎなかった。そしてその頃にはすでに、アラビア人が『天恵』と呼んでいる資質を十全に備えていた。どういうものか信じがたいことであるが、彼は高揚する生命力にあふれ、かつてないほど健康そうに見受けられた。彼がただそこにいるというだけで、彼に逢った人は誰でも幸福感にひたったものらしい。アラビアの奴隷商人たちまでがそう感じ、自分たちにできることなら何なりと手を貸すのだった。・・・『わたしがこの地方で見かけたいちばん奇怪な病気はたしかに絶望というものらしい。自由民が捕えられて奴隷にされるとこの病気に罹るのである』。この短い言葉のうちに、彼(リヴィングストン)は問題の根底に触れていた。そしてこの言葉は、イギリスの宗教界、下院、反奴隷協会が当時弘報していたあらゆる残虐行為の証拠や人道主義的言辞に劣らず効果的だったといえる。・・・リヴィングストンは長年にわたり遠征を重ねているうちに、しだいに医学の伝道者から探検家へと変貌していった。彼はアフリカで自分が為すべき仕事は個々の人間の魂を救済することよりも、むしろ奴隷売買を抑止し、未開の土地を開発することにあると確信するようになった。そうすればキリスト教と文明とが自分のあとに従うであろうというのである」。
補給物資の面で困窮していたリヴィングストンは、1871年11月10日、ウジジでスタンレイと出会うのである。「その時まで5年近くもリヴィングストンの消息は皆目わからなかったのである」。
「(リヴィングストンを捜し当てた)スタンレイとは誰か? 彼は驚くべき人物だった。・・・ウジジに来たころの彼はまだ30歳にすぎず、やっと成功への出発点に立ったばかりであった。彼の中では厳しさ、迅速さ、自己中心性ということが最も優先していた。彼が最も明瞭に欠いていたものは『天恵』であった。世界中でリヴィングストンとスタンレイほど互いに違った二人の人物はいなかった。リヴィングストンは薬、補給物資、外界からのニュースを必要としていたのに、若い来訪者はそれらの全部を持っていた。スタンレイはこの高名な人物を捜し出すという名声を――彼の愛用語で言えば『栄光』を必要とし、現にそれ以上のものを受け取っている。コウプランド教授の言うように、彼のリヴィングストンとの短い交友は『彼の生涯で最も崇高な経験だった。彼は偉大な人物の身辺に接して、その偉大さに驚嘆し、その擒になって跪いた』」。
水源に辿り着けないまま、1873年5月1日の早朝、60歳のリヴィングストンは現地で病没する。
リヴィングストンの死後も、スタンレイは探検を進め、遂に1875年、ヴィクトリア湖を一周して、それが一つの大きな湖であること、ヴィクトリア湖からの流出口はスピークが見つけたライポンの滝しかないこと(この流れが白ナイル河となる)、ヴィクトリア湖に流入する川はカゲラ川だけであること――を確認することに成功した。スピークが正しかったのだ。カゲラ川とその支流を遡ってみるということが残されているにしても、水源問題は事実上、決着を見たのである。
こうしたスタンレイらの探検が、ヨーロッパ列強によるアフリカの植民地化を進めたことを思うと、何とも複雑な気持ちにならざるを得ないのである。