榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

憧れのアフリカ探険家たちが目指したもの・・・【山椒読書論(206)】

【amazon 『アフリカ探険物語』 カスタマーレビュー 2013年6月19日】 山椒読書論(206)

意志力を科学的に論じた『WILLPOWER 意志力の科学』の中で、著者がアフリカ探険家、ヘンリー・スタンリーの意志力を高く評価しているので、私の宝物の一冊ともいうべき『アフリカ探険物語』(那須国男著、社会思想社・現代教養文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を無性に読み返したくなってしまった。

私は幼い時から探険というものに憧れてきたが、極地や高山、海洋の探険よりも、ジュングルに代表されるアフリカ探険や大砂漠の探険に、より強く惹かれてきた。

『アフリカ探険物語』は、アフリカ探険の全体像を知るのに最適な本であるが、「白ナイルの水源地究明に挑戦した人々」、「リヴィングストンの魅せられた活動」、「スタンリーの探険と征服」の3章が特に気に入っている。

エジプトから地中海に注ぐ世界最長級のナイル川は、白ナイル川と青ナイル川が合流したものである。青ナイル川に比べかなり長い白ナイル川の水源はどこかということは、多くのアフリカ探険家たちの心をときめかせてきた。

『アラビアン・ナイト』の集大成英訳者として知られるリチャード・バートンに誘われ、白ナイル川の水源探しの探険に同行したジョン・スピークは、いくつものジャングル、沼地、滝を越えるという大変な苦労の末に、これこそ水源に違いないと思える大きな湖を発見し、ヴィクトリア湖と名づける。「ぼくは足下にひろがる湖があの関心の的になっている川、源泉が数多い推理と探険の対象になった川を生み出しているのだということをもう疑わなかった。アラブ人たちが話してくれたことは、文字通り正しかったのだ。この湖はタンガニーカ湖よりずっと大きい」と、誇らしげに探険日誌に書きつけている。

この章は、「しかし、それもやはりナイルの水源ではなかった。カーガラ川はブルンジ領内に南から東北に流れるルヴヴ川という上流を持ち、さらにその上流には、いったん南下したのち東に向かい、つづいて北上するルヴィロンザ川が源泉になっていることが分かった」と結ばれている。確かに学界の見解はこのようになっているが、ヴィクトリア湖に流れ込んでいる多数の川の中でどれが一番長いかという議論よりも、ヴィクトリア湖から白ナイル川が流れ出しているということのほうが本質的なことだと、私は考えている。そうでなければ、スピークの努力が報われないではないか。

医師でもあるデヴィッド・リヴィングストンは、キリスト教の伝道師として南部アフリカに派遣される。南部アフリカは、ヨーロッパ人による探険があまり行われておらず、地理知識の空白も多かった。「パイオニアとして次々に新天地に進出し、それまでの基地の伝道はキリスト教徒になったアフリカ人に任せるべきだというのが彼(リヴィングストン)の信念で、これが大探険家への道になった。ライオンに腕を噛まれたことも、彼の勇気を失わせはしなかった」。

「6月1日、リヴィングストンの妻子をも含めた一行は、充分な食糧を準備し、80頭の牛、20頭の馬、それにホロ馬車、アフリカの十数人の人夫という大きな編成で、カラハリ砂漠を北上した。ヨーロッパ人のアフリカ探険史でも、子ども連れというのはこれが最初である」。その後も妻子を同行して探険を行っているが、「これは長期のピクニックのようなもので、健康に良いし、ささいなことに神経過敏でなく、新鮮な空気を好む人々には快適である」と、探険日誌に前向きに記している。

リヴィングストンは奴隷売買反対論者でもあった。「彼は川の南部で、はじめて奴隷取引の実態を見て、これを廃止させようと決心した。キリスト教の布教のほかに、商業の発展によって奴隷売買をやめさせようという使命感が、彼の探険地域を拡大させることになった」。そして、彼は、ヨーロッパ人探険家としては、初めてアフリカ大陸横断を達成する。

1871年に、アフリカで消息不明となっていたリヴィングストンを、苦労の末に発見した時、「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」と呼びかけたことで有名なスタンリーは、私生児として生まれ、みじめで貧しい少年時代を送ったが、刻苦勉励してジャーナリストになり、探険家になった人物である。過酷な環境をものともせず、幾度もアフリカ探険を敢行し、そのたびに克明な探険記を著している。原住民に襲われるなど苦難の連続であったが、「リヴィングストンがこの光景を見たら、どんなに喜んだだろう。きっと彼は原住民の本当の純真さをますます確信したに違いない」といった人間味溢れる記述も目につく。

リヴィングストンやスタンリーといったアフリカ探険家たちは、結果的にヨーロッパ列強のアフリカ植民地化工作に協力することになってしまったわけだが、歴史における個人と国家という問題を考えさせられる。