伊藤比呂美のざっくばらんな訳のおかげで、『歎異抄』の教えが理解できた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1821)】
我が家の見頃を迎えているクルメツツジ(キリシマツツジ)を写していたところ、我が家の庭師(女房)から、エビネ、キンギョソウが咲き始めたわよ、と報告がありました。オダマキも頑張っています。
閑話休題、池澤夏樹の『いつだって読むのは目の前の一冊なのだ』(池澤夏樹著、作品社)に唆されて、『たどたどしく声に出して読む歎異抄』(伊藤比呂美訳著、ぷねうま舎)を手にしました。
本書は、伊藤比呂美の『歎異抄』のざっくばらんな訳と、「旅のつづき」で始まるエッセイで構成されています。
「ずっと考えておりました。親鸞聖人の生きておいでだった頃と今とは、ずいぶんちがってしまいました。亡き師のおしえてくださったこととはちがうことが、おしえとして、ひろまっていることをなげいております。これでは、後から学ぶものたちがおしえを受けついでいこうというときに疑いを抱くでしょう。前世からの縁でつながる師に出会うことがなければ、どんなにやさしい道でもすすんでは行かれません。ひとり合点しているうちに『アミダさまのお力におまかせする』という大切なところをゆがめてはならないのです。そのためにも、亡き親鸞聖人のお話しくださったこと、わたくしの耳の底に残っているあのお声を、ここに書きつけてみようと思います。ただただ、同じ心で念仏している人たちの疑いを解きたいと、それだけの思いであります」。
「『アミダがおれたちのために誓ってくださった。 かならず救ってやろうと。そのお誓いの力は量り知れない。 おれたちは救われる。 死んだらかならず浄土に生まれかわるのだと信じて 念仏をとなえようという心が起こりさえすれば おれたちは救われる、 みんな。だれでも。一人のこらず。 アミダのお誓いの前では 老いも若いも善いも悪いもない。 人をえらばない。 ただおまかせする心さえあればいいのだ。 その理由はこうだ。 深くて重い罪のあるもの。 迷いに焼かれて苦しんでいるもの。 そういう人々を救いあげるためのお誓いだからだ。 アミダのお誓いを信じるには 善を積む必要はない。 念仏にまさる善なんかない。 悪だっておそれてはいけない。 アミダのお誓いをさまたけるほどの悪はどこにもないのだから』と」。
「『みなさん。はるばると十いくつもの国を越えて、命を捨てる覚悟でここまで来られたのは、やはりなんとかして極楽浄土に生まれたいと、その方法を聞き出したいと、思っておられるからでしょう。しかし親鸞(わたし)なら、念仏のほかにも浄土行きの方法を知ってるだろう、とくべつなお経も知ってるだろうと思っておられるのなら、そりゃ大きなまちがいです。そういうことなら奈良にも比叡山にも物識りの僧がいっぱいいますから、そっちに行って聞いてください。 わたしは、ひたすら念仏してアミダ仏に救われようと 法然師のいわれたことをそのまんま信じているだけで あとはなんにもありません。 念仏をとなえることがほんとに浄土に生まれかわるたねになるのか。 それともそれがもとで地獄におちてしまうのか。 それもまったくわからない。 でもたとえ法然師にまんまとだまされて それで念仏して地獄に堕ちたとしても わたしは後悔なんぞしません。 理由はこうだ。 修行をかさねてぜったい仏になれるだろうというような人が 念仏をとなえたせいで地獄におちるようなことになれば、 それこそだまされたという後悔もあるでしょう。 ところがわたしは どんな行もできないような人間です。 地獄がすみかと決まっている。 アミダ仏の『すべての生きものを救いたい』というお誓いが真実なら シャカ尊者のお説教も、うそやはったりではないはず。 シャカ尊者のお説教がほんとなら 善導大師のご解釈もうそじゃないはず。 善導大師のご解釈がほんとであるなら 法然師のいわれたこともうそであるはずがない。 法然師のいわれたことが真実ならば 親鸞のいってることもうそではない。 とどのつまり、わたしのような未熟者の信心はこの程度です。これから先は、念仏の道を選ぼうがまた捨てようが、それぞれの判断におまかせしたい』と」。
「『善人だって浄土に生まれかわるんだから 悪人にできないわけはない。 ところがふつう世間の人はこういうのだ。 悪人だって浄土に生まれかわるんだから 善人にできないわけはない、と。 これは一理あるようだが 『何もかもおまかせする』という考えからするとまちがいなのだ。 なぜかというと、自分の力で善い行ないのできる人は アミダにおまかせしようという気持ちに欠けるから お願いの力がおよばない。 でも、自分の力でなんとかしようという気持ちをすてて アミダの力にすっかりおまかせすれば 死んだあとはかならず浄土に生まれかわることができる。 迷いのつきないおれたちは、どんな行をしたって 生きたり死んだりのくりかえしをやめられないのだ。 アミダ仏は、それをあわれんで おれたちみんなを救おうと誓ってくださった。 悪人どもを仏にしてくださるためなんだよ。 だから、アミダにおまかせするしかない悪人は 浄土にいちばんちかいところにいる。 善人だって浄土に生まれかわることができるんだから ましてや悪人にそれができないわけがないじゃないか』と」。
自分は善人だと思っている者は阿弥陀仏に任せようという気持ちがどうしても不足するが、自分は悪人だと自覚している者は阿弥陀仏にすがる以外に方法がないから必至に阿弥陀仏に任せようとする。阿弥陀仏はこのどちらも浄土に生まれ変わらせることができるのだから、安心して任せなさい。私たちはひたすら念仏を唱えるだけでいいのだ――本書のおかげで、親鸞の「悪人正機」、「他力本願」の教えを朧げながら理解することができました。