勝海舟の父・勝小吉が自らの奔放な人生を振り返り、子孫への戒めとして書いた自伝・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1846)】
東京・青梅に住む妹から、マンションの裏山からニホンカモシカが現れたと、動画が送られてきました。ホオノキ(黄みを帯びた白色)、ユリノキ(黄緑色)、キリ(薄紫色)、ベニバナトチノキ(赤桃色)、タニウツギ(桃色)の花が咲いています。
閑話休題、『夢酔独言――勝小吉自伝』(勝小吉著、勝部真長訳編、角川文庫)は、勝海舟の父・勝小吉の自伝を現代語訳したものだが、小吉のきっぷのよい口調が生き生きと伝わってきます。
「おれは、はじめてお上から外出を止められて、この一、二年、自宅(鶯谷の隠居所)に引きこもっていた。その間、毎日毎日いろんな本を読んで暮らした。軍談や御当家(徳川家)の御実記なんぞを読んでみると、昔から名将、大将といわれ、勇猛の士といわれた人々でも、天理というものがわかっちゃあいねえ。諸士を扱い、世を治めるに当たって、乱世であろうが、太平の世であろうが、そんなことは一向におかまいなしだ。いたずらに強引なことをしたり、民心を省みないで悪法を敷いたり、あるいは奢りふけって、女色におぼれたりした人が多い。こういう人々は、一時はうまくいっても長つづきせずに、けっきょく天下国家を失っている。知勇の士といわれた人でも、聖人の道にそむいた連中は、事業を完成させることができないで、中道にしてその身を滅ぼしていった例が実に多い」。
「息子(麟太郎、海舟)がまじめな性質で、益友を友として、悪友につき合わず、武芸が好きで、おれには孝行してくれるし、よく兄弟の面倒を見、倹約質素で無駄づかいをせず、粗末な着物でも恥ずかしがらず、粗食し、おれが困らねえように心配してくれている。娘が家の中の世話をしてくれて、おれたち夫婦が少しも苦労のねえようにしてくれるんで、今はまことに楽隠居になったよ。おれのような仕様のない子供ができていたら、なかなかこんな楽はできまいと思うよ。これも不思議だ。神仏にはまだまだ見捨てられていねえのだと思うよ。孫やその子は、よくよく義邦(海舟)の通りにして、子々孫々の栄えるように心掛けるがいいぜ」。48歳(満年齢)で死去した小吉が41歳の時に、自らの奔放な人生を振り返り、子孫への戒めとして自伝を書いた理由が明らかにされています。
「たとえば、おれを見ろよ。理外に走って、人外のことばかりしたから、祖先より代々勤めつづいた家だったが、おれ一人が無役の小普請になっちまって、勤めねえから、家に疵をつけたも同然だ。これがなによりの手本だわ。今となり、目がさめて、いくら後悔をしたからといって、仕方がねえ」。
「兄が呼びによこしたから、男谷へ行ってみると、いろいろ馳走をした。夕方、親父が隠宅から呼びにきたから行ったら、親父がいうに、『おぬしはたびたび不埒があるから、まず当分は逼塞して、あとさきの身の上の思案をしろ。所詮、すぐには了簡がつくものではないから、一、二年考えてみて、身のおさまりをつけるがよい。とかく人は学問がなくってはならぬから、よく本でも見るがいい』と言う。それで家へ帰ってみたら、座敷へ三畳の檻を拵えておいて、その中へおれをぶち込んだ」。21歳(数え年)の秋から24歳の冬まで、小吉は檻の中で暮らしたのです。
麟太郎が9歳(数え年)の時、道で犬に睾丸を噛まれて重体に陥ります。「医者の手術をする手が、ブルブル震えているから、おれは刀を抜いて、枕元の畳に突き立てて、力んで、励ましたから、息子は少しも泣かずに耐えていた。ようやく縫い終わってから、容態をきくと、医者は、『命は今晩にも受合いは出来ませぬ』という。それを聞いて家中のやつはただ泣いてばかりいる。おれは思うさま、叱言をいって、叩き散らしてやった。その晩から金比羅様へ願をかけ、毎晩裸参りをして、水を浴びて、祈った。息子は夜も昼も始終おれが抱いて寝て、他の者には手をつけさせぬ。・・・しかし、とうとう疵も直り、七十日目には床を離れることができた。それから今になんともない。病人は看病が肝腎だよ」。
「なんでも施しが専一と心がけて、近所はもちろん、困るというものには、それぞれ、その者の身に応じて施したが、そのせいか、飢饉の年にも毎日毎日日々に一朱ずつ小遣いにして遊ぶことができた。友達へも時の間を合してつきあってやるし、毎晩毎晩、道具の市へゆくを勤めだと思って精を出した」。
「大兄(長兄)も林町の兄(次兄)も、おれのことを警戒するようになったから、少しも頓着なく、いろいろ馬鹿騒ぎをして日を送った。ある時、林町の兄の三男の正之助が来て、いろいろ兄の話をしたから、揚代滞にして六両金を出してやり、一緒に林町の用人を連れていって、吉原で女を買ってやった。それを知って兄が怒ってやかましくいって来たが、兄嫁へおれから言って、いろいろはぐらかして事は済んでしまった。おれも三、四年は大きに心が弛んだから、吉原へばかり入りびたっていた。とうとう地廻りの悪輩どもを手下につけたから、一人もおれに刃向かうものはいなかった。その代わりには、金もたいそう遣ったが、みんなおれの働きで、借金はしないようにした。道具の市へは一晩でも欠かさぬようにして、儲けたが、それでも不足がちだった」。
「おれが出口の地面にいた頃のことだが、ある女に惚れて困ったことがあった。その時におれの女房が、『その女のひとを貰ってきてあげましょう』というので、『ぜひ頼む。そうしてくれ』というと、『それには私にお暇をください』というから、『それはなぜだ』と聞いたら、『女の家へ私が参って、ぜひともその人を貰い受けて来ますが、私も武士の妻だから、先方の挨拶が悪かったら、私が死んででも必ずその人に来てもらうつもりですから』といった。そこで女房に短刀を渡したら、『今晩、その家へ参って、きっと連れてまいります』というから、おれは外へ遊びに出かけた。・・・(心安くしている易者に)初めからの出来事を話したらば、胆を潰して、だんだん親切に意見をしてくれて『勝さま、あなたの奥方は実に貞女です。奥方は、自分が死んで、その女の人を替わりに来てもらう覚悟でいます。早くいっておとめなさい・・・もっと情をかけてお上げにならなくっちゃいけませんぜ』といろいろ言ってくれた。考えてみたらば、これはおれの心得違いだと分かったから、夕方、飛んで家へ帰ったら、女房は、うちの隠居に娘を抱かせて男谷の家へ行かせて、自分は書置きをして、今にも家を出るところだ。それからなんとか止めて、ようよう思い直させ、何事もなくて済んだが、これまでも女房にはたびたび助けられたことがあった。それからは不憫をかけてやさしくしてやったが、それ以前の女房は、おれに叩かれぬ日とては一日もなかったくれえだ。この四、五年、女房が急に病身になったのも、それらのせいかもしれぬ、と思うから、この頃では隠居様のように大切にして置くわな」。
こういう父に育てられたからこそ、海舟は、親譲りの度胸のよさ、駆け引きの凄さ、迫力のある居直り方を、後年、大事な局面で発揮することができたのでしょう。