有名になる前の塩野七生のエッセイ集だが、さすがに面白い・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1856)】
キショウブ(黄色)、キスゲ(ユウスゲ。黄色)、ヒルザキツキミソウ(薄桃色)の花が咲いています。マツヨイグサの黄色い花は、しおれると橙色になります。ベニバナヤマボウシ(桃色)、ヤマボウシ(白色)の総苞が見頃を迎えています。ベニバナヤマボウシにやって来たアシナガコガネを見つけました。
閑話休題、エッセイ集『イタリア遺聞』(塩野七生著、新潮文庫)には、えっそうなの、というような興味深いエピソードが鏤められています。
「ある出版人の話」は、ルネサンス期のヴェネツィアの編集者兼出版業者、アルド・マヌッツィオの話です。「ところが、どっこい。アルドは、なかなかにスゴい男なのだ。ベスト・セラーをつくり出したのも彼が最初だし、文庫本をはじめたのも彼だった。しかも、当代きっての知識人エラスムスを校正係としてかかえていたというのだから、なんとも豪気な話ではないか」。
「面白いのは、アルドは、現代でも読書愛好家にははなはだ便利な、『出版案内(カタログ)』を印刷して郵送した点でも最初の人だということであった。それには、アルド社出版の書物が列記され、その一つ一つに簡単な解説がつき、これはアルドが書いたのだが、それ以上に愉しいのは、全出版物には値段が明記されていたことだった。宣伝も、重視していたわけである。しかし、ここまでならばまだ、驚くほどのことでもない。5百年も昔にしてはたいしたものだと感心するだけである。驚かされるのは、彼の徹底した読者サービスであった。自社の出版物の後に、それに関係ある他社の出版書まで列記したのである。このように親切な出版社は、私の知るかぎり現代でも一つもない。これほどのサービスを受ければ、読書愛好家が錨といるかのマークを覚えるのも当然だ。本の売れ行きも上々だった」。この読者サービスの精神は、現代にも生かすことができるのではないでしょうか。
「容貌について」には、笑ってしまいました。「私が読む、アガサ・クリスティの推理小説のイタリア語訳の文庫本には、美人とはお世辞にも言えないが、朗らかな若々しい顔写真が載っているのが常だった。そのたびに、もうずいぶんの年になっているはずだがと、不思議に思ったものである。彼女が死んだ時、『サンデー・タイムズ』の記事だったかに、アガサ・クリスティは40歳の時に写した、この写真しか使わせなかったと書いているのを読んで、はじめて納得がいった。そして、なかなかうまいやり方だと感心し、私もまねしようと考えたのである。ところが、こちらも40になった時に写させたものは、この写真に以後の一生をつきまとわれるかと思うと絶望するようなシロモノで、カメラマンが悪いとは言ってみたものの、所詮、被写体に責任の大半があるのは明らかなのである。結局、このアイデアは、私を一時期幸福にしただけで、実を結ばないで終ってしまった」。いや、塩野を笑えないなと思ったのは、私も10年ほど前に撮った写真をブログ、amazon、facebookなどで使い続けていることに思い当たったからです。
「奴隷から皇后になった女」の中に、目を剥くような由来話を発見しました。「6世紀このかた、トルコのスルタンは、正式の結婚をしてはならないと決められていた。まだトルコ民族が小アジアの流浪の民であった時代、スルタンの妻が敵の捕虜になって以来のことである。その時、捕われた妻は裸にされ、敵将の食卓の給仕を強制された。これ以後、トルコ民族にとってこのような屈辱的な事態が二度と起らないようにと、スルタンの正式の結婚は禁じられたのである。ハレムの奴隷女ならば、何人捕虜にされ裸体でサービスさせられたとて、スルタンの体面には傷がつかないということなのであろう」。思わず、エロティックな情景を思い浮かべてしまいました。
「再びスパイについて」には、有名な色事師、ジャコモ・カサノヴァが登場します。「フランスから発して当時の西欧をゆるがしていた新思想の、ヴェネツィアへの浸透状態を監視するスパイもいた。外国滞在も長く、そういう新思想の持主たちとも親しかったカサノヴァが担当させられたのは、この部門である。また、堕落した風俗にくわしいという彼の特技も活用されて、その方面での情報収集も仕事になっていた」。
「有効であったかどうかはともかくとして、一代の遊蕩児カサノヴァのスパイ業も、8年余りで廃業になる。小説の中でグリマーニを風刺しすぎて、この貴族から名誉棄損で訴えられ、もう一度牢入りするよりはと、国外逃亡のほうを選んだからである。3年後、ボヘミアのワルトシュタイン伯の城で死んだ。彼の仕事は、伯の秘書兼図書室係であった。そこで、有名な『回想録』を書く。と言ってもこの自伝は、スパイになる前で終っている」。
「レオナルド、わが愛」を読んで、残念な思いに囚われました。「フィレンツェの市立病院は、ダンテの憧れの人であったベアトリーチェの父親が寄付したものだから、もう7百年は経っている。レオナルドが解剖に通ったのも、この病院だった」。2度ほど訪れたことのあるフィレンツェで、ダンテがベアトリーチェを待ち伏せしたという橋は見たのに、この市立病院は見ないで終わってしまったことを悔やんでいます。