宗教と哲学の違い、哲学の功績、ポストモダン思想、新・実在論とは・・・【情熱の本箱(323)】
『哲学とは何か』(竹田青嗣著、NHKブックス)は、竹田青嗣の哲学に対する総まとめといった感じの一冊である。
「哲学とは何であるのか。まずこれを、宗教と比べてみよう。宗教は『物語』(神話)によって『世界説明』を行なう。だが何のために。その本質的理由は明らかだ。共同体における善悪、聖俗のルールを定め、そのことが共同体の秩序を安定させるために。つまり、暴力を縮減するために、である。・・・哲学は、はじめて『物語』ではなく、『概念』と『原理』による世界説明の試みとして登場した。このことが哲学の世界説明は、『共同体』『宗教』『文化』の限界を超え出て、すべての人間の理性に開かれた世界説明の『言語ゲーム』となった」。
「ギリシャ哲学の出発のシーンは、哲学の根本方法をきわめてよくわれわれに教えている。そこでは、いわば『哲学のテーブル』という開かれた言語ゲームがあり、誰であれ、ある問題について最も適切と思えるキーサード(=原理)をテーブルの上におき、そのキーサードは、さらにより多くの人間が納得できるキーワードへと鍛えられてゆくのだ。こうした哲学の思考方法を以下に総括できる。ある問題について、さまざまな考えの中から、これについては誰もがこう考えざるをえない、という考え方の道を探して進むという方法である、と。宗教の世界説明は任意の『物語』によって作られる。しかし哲学はこの方法を排して、『誰にとってもこう考えるほかない』という方法、つまり普遍的な共通了解をめがける思考の方法なのである」。
「さて、では、この哲学の方法の最大の功績は何だったかと問うてみよう。私は二つのことを挙げる。第一に、哲学の方法は『自然哲学』を成立させ、それはやがて人間にとっての技術の火である『自然科学』を生み出したということ。つまり、哲学は科学の父でありその起源なのだ。・・・哲学には、もう一つの重要な功績がある。それは、近代哲学によって『近代社会』の根本の設計図が描かれた、ということにほかならない。キリスト教の世界説明が長く世の中を支配したのち、近代哲学は、社会についての新しい世界説明を創出した。すなわち、社会は最強者たる王を排除して、人々による統治権力を立てることができるということ、人民の『一般意志』による統治権力が可能だという考えである。・・・この新しい世界説明、つまり近代の『市民社会』の原理によって、人間社会は、文明発生以来はじめて、万人の自由が確保される社会という未曽有の社会システムを手に入れたのである」。
哲学の歴史を俯瞰した上で、現代社会の哲学は、何を目指すべきかが考察されている。
ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズに代表される現代ポストモダン思想については、「哲学というより、ポスト・マルクス主義としての社会批判思想」であり、「現代の相対主義的思潮は、人々が理性の力によって矛盾に向き合う可能性を阻害してきた。それはどこまでも普遍認識の可能性を否認し、その危険と無効を喧伝しつづけてきたからである。相対主義思想は、われわれがどのように現代社会の現状を把握し、その克服のためにどこへ向かって踏み出すべきかについての認識、『このことについては誰もがそう考えるほかない』という普遍認識を創り出すことができない」と、否定的だ。。
また、カンタン・メイヤスー、マルクス・ガブリエル、グレアム・ハーマン、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラントといった新世代の哲学者たちの「新・実在論」の哲学(思弁的実在論、新しい実在論などとも呼ばれる)に対しても、「この新しい哲学潮流が興味深いのは、現代哲学の相対主義が、すべての認識を相対主義的なものとみなした後、もう一度、『世界』の存在それ自体をどう考えればよいかについての、新しい思弁的格闘が見られるからだ」としながらも、「(メイヤスーの)形式は新しいが、相対主義に内在する背理を指摘する論証という点でまったく新しいものとはいえない」、「(ガブリエルが)提示した『存在論』を、認識論あるいは存在論上の観点からニーチェとフッサールによって示された『原理』と比べると,とうてい新しい『原理』を提示しているとは言えない」、「(ガブリエルの)意味の場の存在論の概念は、ハイデガーとヴィトゲンシュタインの概念の『折衷』的像しか結んでおらず、両者の原理からむしろ後退している」と、辛辣である。
ところが、私の見るところ、竹田自身も彼の現代哲学を具体的に構築するには至っていないようだ。
本書を読んで、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』を読み直したくなってしまった。