文学者たちの手紙が、実物の写真と現代語訳で甦る・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1918)】
フサフジウツギ(ブッドレア)が芳香を放つ薄紫色の花を咲かせています。キュウリが花と実を、トウモロコシが雄花、雌花、実を、トマト、イチジク、キウイフルーツ、ブドウ、カキ、コブシが実を付けています。サトイモが育っています。収穫したタマネギが吊されています。
閑話休題、『愛の手紙――文学者の様々な愛のかたち(新装版)』(日本近代文学館編、青土社)には、文学者たちのさまざまな手紙が収録されています。実物の写真が掲載されており、現代語訳が付されているので、臨場感を味わうことができます。
北村透谷が3歳年上の石坂ミナに送った手紙には、恋する者の苦しみが表れています。「(自由民権運動への)失望と放浪の生活を送った後、彼は(同志・石坂)公歴の姉で3歳年上の石坂ミナと激しい恋に落ちた。ミナは横浜の共立女学校を卒業し、すでに許婚もあった。この書簡はその渦中で書かれたもので・・・『恋愛』と『実生活』の間で懊悩を繰り返しつつ二人は翌年結婚・・・」。
<もうお訪ねしてはならないと決心し、せめてものことに、もう一度だけゆっくりお話をしてみたいという誘惑に誘われて、貴女をお訪ねしたのは厚生館の前々日のことでした。その夜は最も私を苦しめた記憶すべき時間でした。私はもう貴女が私を愛することを覚りましたが、この夜ほど激しく貴女の挙動が私を騒がすことはありませんでした。私はその夜を一生の暇乞いをしようという心構えでおりましたから、貴女が私を愛する挙動があるたびに、最も感覚の鋭い私の胸にハッシと打ち込まれる矢の痛みはいっそう耐えがたく、七転八倒の苦しみでした>(現代語訳)。
53歳の斎藤茂吉が妻・輝子と別居中に出会った25歳の永井ふさ子に送った手紙は、あまりに官能的で息苦しくなるほどです。「二人の交渉は・・・ほぼ2年間続いたとみられる。・・・茂吉は社会的地位、名誉、経済的基盤、日常のすべてを守りながら、ふさ子を愛し、周辺の2、3人の人々を覗き、この恋愛を隠しとおした」。
<ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか、大切にして、無理してはいけないとおもひます。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか>。
川口松太郎は、亡くなった妻・三益愛子への思いを、妻から贈られた手帖に書きつけ続けました。「次の世に生まれ代っても三益愛子を妻に持ちたい」と語った川口の、亡き妻に対する言葉は哀切の極みです。
<ママ去ってちょうど三年目、年と共に思慕が深くなって行く、生活のはしばしにママのいない悲しさがにじみ出る、仕事につかれても 筋につまっても 相談相手はいない 夜寝る時、一人でズボンがぬげなくなった、これからだんだん駄目になるのに、どうすればよいのか、あまりにもむざんな孤独だ>。