偽文書「椿井文書」は、なぜ、昔も今も、人々に持て囃されるのか・・・【情熱の本箱(331)】
『椿井文書(つばいもんじょ)――日本最大級の偽文書』(馬部隆弘著、中公新書)のおかげで、私の3つの疑問――①椿井文書とは、どういう偽文書なのか、②誰が、何のために、椿井文書を作成したのか、③偽文書と分かっても、未だに、持て囃されているのはなぜか――が氷解した。
第1の疑問について――。「椿井文書とは、山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助。1770~1837年)が、依頼者の求めに応じて偽作した文書を総称したものである。中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、見た目には新しいが、内容は中世のものだと信じ込まれてしまうようである。しかも、近畿一円に数百点もの数が分布しているというだけでなく、現代に至っても活用されているという点で他に類をみない存在といえる。分布の範囲やその数、そして研究者の信用を獲得した数のいずれにおいても、日本最大級の偽文書といっても過言ではないと思われる」。中世の地図、失われた大伽藍や城の絵図、合戦に参陣した武将のリスト、家系図と多岐に亘っていることに驚かされる。
第2の疑問について――。「椿井政隆は、伝統的な利権が絡んだ村同士の争いがある場にしばしば登場する」。
「中核となる神社の縁起が地域のなかで受容されると、内容的にそれと関連する偽文書も受け入れられやすくなる。その典拠は、神社周辺に居住する富農の系図である。身分上昇を図る富農にとって、かつては有力な武士だったと語る系図は、喉から手が出るほど欲しいものであったに違いない。そうした系図の信憑性を高めるための工夫の一つが、『古事記』や『日本書紀』などの史書に掲載される固有名詞を転用し、対象とする地域の神社や寺院の山号に命名するという作業である。・・・そして、富農に受け入れられやすくするために、地元でよく知られる史蹟をあらゆる場面で盛り込むのも椿井文書の特徴である。・・・富農の先祖を土豪に仕立てるため、城郭や居館は頻繁に登場する。また、富農が渦中にいる近世後期の出来事と関わらせることによって、いかにもありえそうな話を創作する点も特徴といえる」。椿井政隆が、なかなかの策士であることが分かる。
「神社や史蹟に立脚する椿井文書は、対象とするものが目にみえるかたちで実在するため、具体味を帯びやすい。こうして創作された椿井文書と関連づけて作成されるため、それぞれの系図も信憑性を帯びるようになる」。
「椿井政隆は、対象となる地域で系図をいくつか手がけると、ある合戦に着到した者たちなどの人名を連ねた連名帳を作成する。その際、系図上の人名と連名帳の人名を年代的にも符合させ、相互に関係を持たせることで両者の信憑性を高めるのである。さらに、寺社の縁起や史蹟の由緒書を作成したうえで、それらの寺社・史蹟や系図を持つ家々などを絵図のうえに集約して表現する。このようにまとめられた各地域の歴史は、興福寺の末寺リストとされる『興福寺官務牒疏』で改めて総括される。これによって、遠隔地の歴史が相互に関係するうえ、興福寺の古文書と合致するという誤解もなされ、さらなる信頼を得てしまうのである。以上のように、椿井政隆はあらゆるジャンルの史料を複雑に関係づけることで、偽文書に信憑性を帯びさせていたのであった。しかも、椿井政隆は村と村が対立しているところに出没し、論争を有利に導くような偽文書を作成することで村々の欲求に応えていた。これも、椿井文書が受容されてしまう理由の一つといえる」。何とも、羨ましいほどの構想力だ。
第3の疑問について――。「おそらく、これまで椿井文書の存在に気づいた研究者の多くも、それを研究することは『およそ時間の無駄でしかない』ため、同様に黙殺という対処をしてきたに違いない。しかし、黙殺したという情報が時代ごとの棲み分けなどが要因となって研究者全体に共有されなければ、椿井文書と知らずに使う研究者も出てきてしまうのである」。
「各地で発行された自治体史には、椿井文書と知らずに引用している事例が無数にある」。
「昭和40(1965)年ころから、全国各地の地方自治体において、自治体史の編纂が活発に行われるようになる。不幸なことに、戦前から戦後にかけての研究者の世代交代によって、椿井文書の存在もほとんど忘却されたころに、各地で古文書の悉皆調査が始まるのである。そのため、この事業のなかで次々と再発見された椿井文書は、あまり警戒されることなく活用されてしまう」。
「枚方・交野両市のホームページをみても明らかなように、定着した偽史は町おこしに使われているという点で共通することである。事実か否かということよりも、町おこしに使えるか否かということこそが、定着するかしないかの第一の岐路となるらしい。『五畿内志』をめぐる議論では、いくら否定派が正論を述べようとも、町おこし的な使われかたをする場合は肯定派がおのずと優勢になった。この構図は、今も昔もあまり変わらないようである」。
「椿井文書は、人々がかくあってほしいという歴史に沿うように創られていたため受け入れられた」。この短い一節が、椿井文書が長きに亘り存在感を発揮してきた背景を的確に言い当てている。
史料の取り扱いに厳しさを欠く研究者、損得勘定で町おこしに偽文書を利用する関係者に対する著者の怒りが、ひしひしと伝わってくる。
それにしても、椿井政隆は、これほどの、人々の欲求を見抜く眼力、広範かつ豊富な知識、膨大な偽文書を相互に関連づけながら創り上げる構想力と実行力を、他の真っ当な道に向けることができなかったのだろうか。これほどの情熱を注ぎ込めば、違う道で一廉の人物になっていただろうに、何とも勿体ないというのが、私の率直な感想である。