榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

池田晶子の哲学とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2098)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年1月10日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2098)

ジョウビタキの雌、ヒヨドリをカメラに収めました。

閑話休題、『不滅の哲学 池田晶子』(若松英輔著、亜紀書房)には、著者の池田晶子に対する敬愛の念が籠もっています。

「池田は、ヘーゲルを愛した。だが、この哲学者を祀り上げたりはしない。『同じ人間が考えたことがわからないはずがないという確信を手放さない』。さらに、『ヘーゲルは、肉体で読まれるべきで、考えながら読むべきすじの書物では、絶対にない』ともいう。・・・『ヘーゲルは間違いなく、哄笑する哲学者である。誰もそんなことは言ってないが、私にはわかる。謹厳だの晦渋だのというのは、おそるべき誤読であって、あれら大言壮語の煙幕の向こうで、高らかに笑っているのが私には聞こえる』と池田はいう」。

「『<なぜ>という問いに、<神>と答えられた時代は、前世紀の末で終わりを告げた。今私たちは、なぜ<在る>のか、わからない』とも池田はいう。この一節の背後に、『神は死んだ』といったニーチェを感じることは難しくない。・・・『彼(ニーチェ)は、信仰の神を殺すことによって、真正の神を生き返らせたのだ』と池田は書いている。ここで池田が『信仰』と書いたところは、『教義』あるいは机上の神学と置き換えた方がよいかもしれない。・・・『ニーチェを真似して、無神論と言ってればすむと思っている日本の知識人の皆さん、あなたが無いと言っているのは、では、どの神のことですか。あの神、この神とここで言ってはならない。なぜなら、ニーチェがその死を宣告したのは、まさしくその、あの神この神と言い得るような神、人の勝手であったりなかったりするような、<観念>としての神だからだ』」。

「池田晶子のデカルトへの敬愛は深い。哲学はヘーゲルに極まる、といったこともあったが、ヘーゲルへの思いが熱情だとすれば、彼女のデカルトへの思いはもっと沈着な、だが、哲学者であること自体に影響を与えるものだった。・・・池田の目に鮮明だったのは、むしろ魂の探究者としてのデカルトの姿である。世の浅薄なデカルト理解に、池田は辛辣な言葉を残している。・・・信じる者の魂は滅びることがない、とキリスト教は説く。信じる者は救われると教会はいう。デカルトは異なる道をゆく。彼は、特定の宗教を信じることがなくても、魂は不滅であることを、『哲学』によって明示しようとした。池田晶子は、その哲学的伝統を現代によみがえらせようとする」。

「『哲学』とは、書物に記された論理ではなく、むしろ『考える行為そのもの』だ、と池田はいう。彼女の言葉通りなら、真に哲学と呼ぶに値するものがあるなら、それは高邁なる回答者であるよりも、私たちを真理へと導く随伴者でなくてはならない。だが、今日の日本における『哲学』の事情はどうだろう。思想家、あるいは哲学者と呼ばれる人々の多くは、問いかけることよりも、回答することに懸命になってはいないだろうか。問いにおいては沈黙し、むしろ、多弁を弄して問いが顕現することを封じようとしているようにすら感じられる」。

惜しいことに、池田は、2007年2月に46歳で亡くなりました。