榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

東海道五十三次が、さまざまな視点から論じられている一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2164)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年3月17日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2164)

モクレン(シモクレン。写真1~6)、サラサモクレン(モクレンとハクモクレンの交雑種。写真7~9)、ハクモクレン(写真10)、シデコブシ(写真11~13)、コブシ(写真14)が咲き競っています。我が家でも、モクレン(写真15、16)が咲き始めました。因みに、本日の歩数は11,603でした。

閑話休題、東海道五十三次の旅を思い浮かべるだけで胸が躍る私にとって、『東海道五十三次をよむ』(鈴木健一編、三弥井書店)は、期待を裏切らない一冊でした。

古代から江戸時代を経て昭和に至る期間の東海道について、17名の執筆者がそれぞれの視点から論じています。

編者のこのような一文から始まっています。「芭蕉の句から始めよう。元禄4(1691)年、門人の乙州が江戸に向かうため東海道を下る際に、餞別として詠んだ句は次のようなものである。<梅若菜まりこの宿のとろろ汁>。あなたはこれから旅の途中で梅や若菜を目にすることでしょう。鞠子の宿駅では名物のとろろ汁を味わえますね。道中に楽しみが多いことを祝意として表した一句である。鞠子(丸子)は江戸から20番目の宿駅で、現在の静岡県静岡市駿河区の地名である。とろろ汁を商う丁子屋は慶長元(1596)年創業で、今日でも営業している」。

「御油宿、弥次さん喜多さんと狐」には、こういう一節があります。「『東海道中膝栗毛』において弥次郎兵衛と喜多八が御油宿に到着するのは、旅に出て9日目のことである。・・・御油宿の留女については・・・その数も多く、また喧しく強引なことで有名であったようである。歌川広重も『東海道五拾三次』で御油を描くにあたり、遠景ではなく留女の客引きの光景に焦点をあてており、腕づくで客を引きこもうとする彼女たちの躍動感あふれる姿を巧みな筆致で描き出している。この画の視覚的な印象は強烈であり、後々『御油=留女』のイメージが拡大、長く再生産され続ける一因となったと思われる」。

「(十返舎)一九が旅の舞台となる土地をベースに、その地と繋がりのある、または相性の良い題材を吟味・加工して鏤め、弥次郎兵衛と喜多八というキャラクターで味付けをすることによって新たな物語を作り上げていたことを確認することができよう。御油から赤坂にかけての騒動は、一九がもっとも好んだ『狐』にまつわるエピソードや趣向を惜しむことなく注ぎ込んだ『膝栗毛』のハイライトの一つであり、他のどこでもない、御油宿だからこそ成立し得た場面と言ってよいだろう」。

「(『伊勢物語』の)『東下り』の背景にあるもの――東国に向かう想像力」は、東下りが史実か否かを論じています。「『東下り』章段を読むときに、一度は考えてみたくなるのは、これらの物語がどの程度まで史実に立脚しているのか、という問題である。『伊勢物語』の主人公である『男』は、9世紀に生きた実在人物である在原業平のイメージと、彼が詠んだ和歌を核として育まれたものである。・・・業平の実人生に『東下り』があり得たのか。彼の心の中に、貴族社会からはじき出されたという疎外感や、都の外に逃れ出たいという願望が兆すことがあったのか。そのあたりのことはわからない。しかし、『東下り』という物語の背景に、同時代の都人の東国に寄せる関心があったことは確かであろう。東海道を下る物語は、社会が共有する想像力によって支えられているのである」。

『更級日記』に関して、興味深いことが書かれています。「今からちょうど1000年前の寛仁4(1020)年、上総から京を目指して東海道を旅した少女がいた。その少女とは菅原孝標女である。父親である孝標が上総介であったため、彼女も姉や継母とともに上総で過ごしていた。そして孝標の任期終了に伴い、上洛することになったのだ。孝標女の40年にも及ぶ人生の回想記である『更級日記』は、この上洛の旅から始まる。・・・旅の目的についても、父親の上総介任期終了に伴う上洛であるということは示されない。その代わりに描かれるのは、『京にとく上げたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ』と、上洛して物語が読みたいと願った孝標女自身の姿である。この旅は、父親の仕事の都合などではなく、薬師仏への祈りが通じたから実現したものとして描かれるのだ。『更級日記』の上洛の記は、こうして受領一家の上洛という現実を排除して始まっていく。・・・それでも、『更級日記』には東海道の旅がいきいきと描かれている。むしろ、読み物として再構成されたものだからこそ、そこには美しい道中が描かれているのかもしれない」。