下剋上の典型とされる松永久秀は、謀反人どころか忠義の人であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2176)】
ハス田の畦道でニホンスッポン(写真1、2)に出くわしました。写真を2枚撮り終わった途端、驚くほどの早足でハス田に飛び込んでしまいました。ハナモモの園芸品種・キクモモ(写真3~5)、ハナカイドウ(カイドウ。写真6)、セイヨウシャクナゲ(写真7~9)が咲いています。ホトケノザ(写真10~12)が群生しています。ソメイヨシノの花筏が目を惹きます。
閑話休題、『松永久秀――歪められた戦国の“梟雄”の実像』(天野忠幸編、宮帯出版社)は、松永久秀を巡る、かなり専門的な論文集です。
「松永久秀は三好長慶と織田信長という二人の畿内の支配者に仕え、その人生は多くの逸話に彩られている、戦国時代の下剋上の風潮を代表する人物であり、すぐに謀反を起こす梟雄で、義理人情のかけらも無い人物であったとされる。・・・真実の久秀は、戦国時代当時の史料から見つけ出さねばならない」。
「松永久秀の逸話として有名な『三悪』であるが、三好義興も足利義輝も殺しておらず、大仏焼失も敵陣の攻撃以上の意味を持たない。久秀は家柄も所領も持たない自らをその才覚のみで評価し、家臣団の最上位にまで登用してくれた三好長慶に対しては、謀反どころか専横な振舞すらなく、忠義を尽くした。・・・久秀の『謀反癖』も事実ではない。久秀は積極的に三好家からの自立を目指したのではなく、失脚して排斥されたのである。また、足利義昭や織田信長に敵対し降伏したのではなく、彼らと同盟し、その上洛を2年も支援してきた。それにもかかわらず、義昭は久秀の敵である筒井順慶を許容し、久秀を排除した。久秀は義昭と信長の対立に巻き込まれたが、信長が久秀の服属を容認したのは、久秀が信長と戦っていないためであろう。信長に背いたのは一度だけであるが、天正年間の信長の戦いは、信長が諸大名と全国統一を争った過程ではなく、諸大名が支持する現職の将軍義昭との戦いであった点から評価しなければならない」。
「また、久秀は多くの才を発揮した。久秀も主君の長慶と同様に多くの人材を求め、奉行人として登用した楠正虎は、信長や秀吉にも右筆として近侍した。(家臣の)柳生宗厳(石舟斎)は結城忠正(進斎)と親交を深め、その太刀使いを新陰流に取り入れた。また、キリシタン武将として有名な高山右近ジュストや内藤ジョアンが、家臣の子弟や松永一族から巣立っていった。名儒清原枝賢や医聖曲直瀬道三とも親交があり、堺の豪商で茶人の若狭屋宗可を大友氏や河野氏などとの大名間の外交に重用し、千利休らが登用される道を開いた。さらに、久秀は多くの近世城郭に採用された多聞櫓を考案したとされる。それが久秀の個人的な発案かどうかを確認することは難しいが、後世の大名に城作りの名手と認識されたことはおもしろい」。
「そして何より、長慶と共に、軍事的な側面だけでなく、家格や秩序など精神的な面でも足利将軍と戦い、その権威を絶対的なものから引きずり下ろしたことが特筆される。それ故に、久秀は諸大名の心の中に残る足利将軍の権威の強靭さを知っていた。だからこそ、三好義継や息子久通のように義輝の殺害に与することができず、義昭との関係を切れなかったのであろう。久秀にとって下剋上とは、江戸時代に創作されたような、傲慢な振舞いをしたり、上位者を殺害したりする単純な話ではない。それまでの社会秩序や世界観をしたたかに変えていこうとする運動であったと言えよう」。
こうまではっきりと汚名を雪いでくれた天野忠幸に、泉下の久秀は感謝しているに違いありません。
また、他書で「高山飛騨守ダリオ」という不思議な名乗りの武将が登場するが、本書の巻末の「松永久秀関係人物略伝」のおかげで、「?~1595年。松永氏の家臣。実名は不詳。洗礼名はダリオ。摂津の国人。息子は右近ジュスト。松永久秀に属して大和に移り、宇陀郡の沢城主となる」人物だと知ることができました。