野心的な地方青年たちは、馬車でパリを目指す・・・【情熱の本箱(358)】
『馬車が買いたい!――19世紀パリ・イマジネール』(鹿島茂著、白水社)は、19世紀フランス文学の主人公たちを通じて、当時のパリの世相に迫ろうという意欲作である。
「バルザックを初めとする19世紀の小説家がほとんど例外なく書き残しているフランス版ビルドゥングス・ロマン(教養小説)の主人公たち、すなわち、『ゴリオ爺さん』のウージェーヌ・ド・ラスチニャック、『幻滅』のリュシアン・ド・リュバンプレ、『赤と黒』のジュリアン・ソレル、『感情教育』のフレデリック・モローなどは、ある者は乗合馬車で、またある者は郵便馬車に乗って、ありあまる自己の野心を表現すべく、このパリ街道からパリに向かって実際に出発したのである。ところで、かれらは、作者の分身であると同時に、ある意味では当時の野心的な地方青年の類型でもあったはずだ。だから、これらの主人公たちがパリ街道を基点としてその後にたどっていく人生の軌跡を何枚か重ね合わせていけば、そこにはモンタージュ写真のように、19世紀前半にパリで一旗あげようとして上京した地方出の青年のプロトタイプが浮き出てくるのではあるまいか。そして、実際にはこのプロトタイプは、今日、われわれ読者が、漠然とイメージしている地方出の青年という紋切型とはかなり違ったものなのではなかろうか」。
「当時のパレ・ロワイヤルは商品と思想のバザールであると同時に肉体のバザールでもあった。人出があるから娼婦が集まるのか、それとも娼婦が集まるから人出があるのかそこのところの因果関係ははっきりしないが、とにかく、パレ>・ロワイヤルと娼婦は切っても切れない関係にあった。現在サン=ドニ通りやブローニュの森を流している娼婦もそうだが、この当時の辻君たちも、着ることと脱ぐことの限界線上に位置するような服を着て男たちの注目をひこうとしていたので、<肩や胸のまぶしいばかりの白い肉が、たいていは黒っぽい色調の男の服装のあいだでかがやき、じつにみごとな対照をうみだしていた>(『幻滅』)。こうした強烈な誘惑を前にしては、いかに勇猛なナポレオン軍の将兵といえども、勝負は初めからついている。おまけに、娼婦のなかには『浮かれ女盛衰記』のエステルのごとき絶世の美女もいたから、『シャベール大佐』の同名の主人公のようにパレ・ロワイヤルでひろった娼婦にぞっこん惚れこんで妻にめとるものがいたとしても不思議はない。ナポレオンでさえ、1787年の11月にここで若く美しい娼婦を相手に初体験を済ませている」。
「我らが主人公たちが出世への野心を燃やすきっかけとなる場面は、不思議なことにどの小説でもほとんど同じである、すなわり、シャン=ゼリゼの大通りで豪華な馬車の行列を見たときに、我らが主人公たちはにわかに上流の生活に憧れを持つようになるのである。<はじめは、よく晴れた日にシャン=ゼリゼを練り歩く馬車の列にただ感嘆するだけだとしても、間もなく彼は、それを妬ましく思うようになる>(『ゴリオ爺さん』)。我らが主人公たちの徒歩か辻馬車と、上流階級の豪華な馬車とでは雲泥の差があるのだ。
「馬車に乗れない無念さ、そしてその反動として馬車を乗り回せることの快感、我らが主人公でこの二つの感情を味わわなかった者はひとりとしていない。特に『人間喜劇』においては、この『馬車のないダンディー』の屈辱感があまりに生々しく描かれているので、バルザックはこのことでよほど惨めな思いをしたのだろうとそぞろ哀れを催すほどである」。