グリコ森永事件の「かい人21面相」は、なぜ捕まらなかったのか・・・【山椒読書論(564)】
長いこと、私はグリコ森永事件について3つの疑問を抱いてきた。今回、手にした『キツメ目――グリコ森永事件全真相』(岩瀬達哉著、講談社)がこれらの疑問に答えてくれた。
第1の疑問は、何度か犯人に異常接近するチャンスがあったのに、逮捕できなかったのはなぜか。
「裏取引の当日、キツネ目の男は意外なほど大胆な行動に出ていた。身代金5000万円を持参した丸大食品の社員を捜査員とは思わず、すぐ後ろを付けて歩いていたのである。その不審な動きを大阪府警の6人の捜査員は捕捉し、2時間近く尾行していた」。
「6人の捜査員は、この男がかい人21面相の一味に違いないと確信し、徹底的にマークしている。一方の男は、捜査員が適当に入れ替わりながら尾行していることには、まったく気づいていない様子だった。・・・無理をしない追尾ということで、高槻駅に着いたあと、再び京都駅に向かった男を追ったのは6人の捜査員のうち2人だった。あとの4人と現金持参人役の捜査員は、府警本部に戻っている。そして京都駅構内の雑踏のなかで、追尾の捜査員はこの男を見失うことになるのである」。
アベックを装った2人の捜査員の列車の真ん前の座席に横柄な態度でボーンと座った35歳ぐらいのキツメ目の男の身柄を押さえることもできたのに、捜査指揮官の現行犯逮捕方針を守れという指示に従わざるを得なかったのである。
「『パトカーを高速道路に近づけるな』という禁止事項が徹底されていなかったため、滋賀県警の通常警備のパトカーが、この現場に、しかも犯人が潜んでいた時間帯にやって来ていたのである。(ハウス食品の)現金持参人の運搬車が(目印の)白布のポイントに到着する約30分前のことだった。かい人21面相のリーダーだったキツメ目の男は、その県道の路肩に停めた白いライトバンの中から名神高速道路を見上げていた。このライトバンは、数日前、京都・長岡京市の工事事務所から盗んだもので、運転席から見える高速道路の防護壁のフェンスには、この男が取り付けた白布があった。滋賀県警の通常警備のパトカーは、県道を草津市方面から走ってきて、高速道路をくぐると、しばらくして止まった。常務していた3人の警察官のひとりが、高速道路手前で停まっていた白いライトバンのことを口にしたからだ。『こんな時間に、なぜ、あんなところに停まっているのだろう・・・』。3人の警官は、さきほど脇を通過した車のところまで引き返し確認してみることにした。Uターンし、駐車中の白いライトバンの隣に横付けしようとしたまさにその瞬間、ライトバンが急発進した。パトカーはあわてて切り返し、方向転換するとサイレンを鳴らしながら追跡するが、不審車両は草津川の堤防上の道路に出るとさらにスピードを上げた。路肩を枯れ草が覆い、やっと車一台が通れる幅員の舗装もされていないこの道路を、白いライトバンは車のライトだけを頼りに漆黒の闇の中をフルスピードで走り抜け、パトカーを振り切っていたのである」。
「ハウス食品から1億円の『身代金』を奪おうと姿を現したかい人21面相に、滋賀県警の通常警備のパトカーが職務質問しようとしたことで、鉄壁の捜査網に誘い込んだ犯人を、わざわざ網の外へと追いやってしまっていたのである」。
大阪府警と滋賀県警の綿密な連携ができていなかったゆえの、取り返しのつかない大失態であった。
第2の疑問は、犯人グループは、何度も脅迫状や挑戦状、手記などを送り付けるなど、多くの手がかりを残しているのに捕まらなかったのはなぜか。
「キツネ目の男は、山本(昌二・滋賀県警)本部長の(滋賀県警のパトカーの行動に責任を感じての)自殺に動揺し、うろたえたはずである。そして仲間のメンバーを前にこう説いていたのだろう。ここいらで終わりにしよう。いままでは運が良すぎた。これ以上動いたら、今度こそ運のしっぺ返しがあって、簡単に捕まってしまう――。犯行を停止したことで、彼らは時効の壁の彼方へと逃げ切ることができたのである」。
第3の疑問は、犯人グループは、どういう背景を持った者たちなのか。
「かい人21面相のメンバーでは、キツメ目の男とビデオの男が広く知られている。ファミリーマート甲子園口店に青酸ソーダ入り『森永缶入りドロップ』を置く男の姿を、店内の4台の防犯カメラが捉えているが、これがビデオの男である。・・・このふたり以外では、脅迫企業への指示書を読み上げる声が録音された35歳前後の女と、同じく声が録音された10歳前後の男児、そして言語障害のある10歳前後の男児に加え、(グリコの)江崎社長を拉致したときの運転手役の男の、4人が確認されている。従って、かい人21面相のメンバーは、少なくとも6人はいたことになる。彼らのなかには、『製図作業の経験者』で『美術に関係のある』仕事に就いていた者がいたことを、合同捜査本部は特定している」。
「(企業への指示書の)不審な女と同じく、電話の声が録音された10歳前後の健常児は、その声の調子から『母子のような、ごく親しい関係とみられている』。合同捜査本部では、キツメ目の男とこの女は夫婦で、ふたりの間に生まれたのが10歳前後の男児と見立てた。そしてこの家族と親族関係にある者のなかに、ビデオの男、言語障害のある10歳前後の男児、そして運転手役の男がいたと考えていた」。
「合同捜査本部の指揮官が、犯行現場に近接する(スーパーの)ダイエーの存在に気づき、同社関係者への本腰を入れた内偵を実施していれば、あるいは犯人一味はあぶり出されていたかもしれない。それほど各現場には、ダイエーに関係する人物でなければ残せない足跡が認められるのだ」。
「キツネ目の男とダイエーとの関係、茨木インターチェンジ付近に住んだことがなければ身につかない土地カン、電話の声の女と男児は『母子のような、ごく親しい関係』であり、一族のなかに言語障害のある男児がいて、『美術に関係のある』職業についていた者がいるなど、犯人を絞り込んでいく材料がありながら、合同捜査本部はそれら情報を有効活用することなく、相変わらず現行犯逮捕方針から抜けきれないでいた」。
著者の結びの言葉――「キツネ目の男に率いられたかい人21面相のメンバーは、警察を出し抜き、企業を脅し、多額のカネを奪い取るというゲームには勝ったのかもしれない。しかし犯罪を憎み、不正を許さない社会の追及には時効がない。キツネ目の男と電話の声の女は、70代の年齢となり、ビデオの男も50代後半から60代に達している。彼らはいまになって、ようやく自分たちの身元が明らかになりかねない痕跡の多さに気付き、愕然としているはずだ。しかもその中には、これまでいっさい明かされてこなかった、キツネ目の男の血液型も含まれているのである。・・・尊大な思い上がりで犯行を企て、当時10歳前後の男児だけでなく、同年齢の言語障害のある男児までを利用した罪とリスクは永遠に消えることはない。事件後は善良な市民を装い社会に溶け込んできたはずが、かい人21面相のメンバーは、この先ずっと身元が割れる恐怖を抱え、怯え暮らさなければならないのである。時効によって罪に問われることがなくなっても、その怯えからは生涯逃げることはできない」――が、胸に沁みる。
手に汗を握りながら一気に読み通してしまった一冊である。