ランボーが詩を捨てて、アフリカで商社員に転身したのはなぜか・・・【山椒読書論(188)】
小林秀雄のアルチュール・ランボーとの出会いは、よく知られている。「僕が、はじめてランボオに出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。・・・豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様に思われる」(『考えるヒント(4) ランボオ・中原中也』<小林秀雄著、文春文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能>)。
小林ならずとも、散文詩集『地獄の季節』(アルチュル・ランボオ著、小林秀雄訳、岩波文庫)を開けば、ランボーの恐るべき詩才は明らかだ。18歳でこういう詩を書くとは、何と言う早熟の天才なのだろう。
例えば、「言葉の錬金術」の一節は、こんなふうだ。「俺は夢みた、十字軍、話にも聞かぬ探検旅行、歴史を持たぬ共和国、息づまる宗教戦争、風俗の革命、移動する種族と大陸。俺はあらゆる妖術を信じていた。俺は母音の色を発明した。――Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。――俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、しかも、本然の律動によって、幾時(いつ)かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希うところがあったのだ」。
ところが、ランボーは20歳で詩を書くことをすっぱり止めてしまい、それこそさまざまな職業、仕事を転々とした後に、アフリカで商社員になってしまう。なぜ、詩を捨てて、商社員になってしまったのか、しかもアフリカで。長いこと、この疑問が私の胸底にわだかまっていたが、『書簡で読むアフリカのランボー』(鈴村和成著、未来社)が明快な答えを示してくれた。
「1880年8月、40度を越える酷暑の季節に、アデン港スティーマー・ポイントへ一隻の船が入って来た。デッキには見たところ年齢不詳の男が立っている。20代ともいえるし、40代といっても通用しそうだ。痩せて背が高く、屈強な体つきをして、精悍な顔立ちだが、病み上がりのようで疲弊した様子をしている。卵形の顔にブルーの目だけが強い光を放つ。粗末な上着に安物のズボン、擦り切れた革の旅行鞄が一個だけ、砂まみれの履きつぶした靴などから推して、金めぐりのいいツーリストではなさそうだ。そういう物見高い目つきをしていない。無関心というのではないが、着いたばかりの異国の街の風物に、好奇のまなざしを投げるわけでもない」。詩と訣別した25歳のランボーが、アラビア、アフリカでコーヒー交易商、砂漠と荒野の武器商人、僻地の探検家としての第一歩を踏み出した瞬間である。そして、この生活が37歳で病死するまでの11年間、続くのである。
「9月23日にキャラバン46で、ラクダ42頭分の牛の皮革を発送します。10月20日には、山羊皮5千枚をキャラバン48で発送する準備をしています。おなじキャラバンがおそらくオガディンの羽根と象牙を送ることになります。われわれの踏査隊が9月末にそこから最終的に戻ってくるのです。われわれはイトゥー・ジャルジャールに向けて小規模な踏査隊の派遣を試みました。これは有力な首長への贈物といくらかの商品を運びます。われわれにもたらされた情報によりますと、これらの部族のもとにしっかりした基盤にもとづいた交易を立ち上げることができそうです」。1883年9月23日付の書簡では、自分の拠点から四方八方に商業探検隊を派遣する交易商人の、八面六臂の活躍ぶりが躍如としている。
一方、1885年9月28日付書簡では、こんなことを書いている。「皆さんにはこの場所はまるで想像もつきませんよ。ここには木は一本もなく、枯れ木さえなく、草一本なく、土ひとかけらなく、真水一滴ありません。アデンは死火山の噴火口で、底には海の砂がつまっています。周辺はまったく不毛な砂の荒地です。しかもここでは、噴火口の内壁が風の吹き込むのを妨げるので、われわれはこの穴の底で、まるで石灰の炉に入れられたように焼かれるのです。こんな地獄で人に使われるとは、よほどパンのために働くことを強いられたにちがいありません!」。ランボーは多面的かつ複雑な人間なのである。
因みに、かつてイーニッド・スターキーによって唱えられた「ランボー奴隷商人説」は、今日では完全に否定されている。
ついでに、もう一つ。ランボーはラクダ100頭のキャラバンを組織し、2000丁の小銃、60000個の弾薬筒をメネリック王に売り付けようとする。この王の従兄弟で、本書にも登場するデジャッチ・マコンネン総督はハイレ・セラシエ皇帝の父に当たる。
危険極まりないキャラバンなど放り出して、ヨーロッパに帰還し、パリ詩壇に復帰したら、凱旋将軍のように赫々たる名声に包まれたはずだが、ランボーは自分の詩の評判に全く関心を示さなかったのである。
「ランボーは詩に関して、公刊すべき作品と考える以上に、書簡のように宛先に届いた段階で、その使命を果たしたと考えた」。このことは、『地獄の季節』の詩がポール・ヴェルレーヌ宛ての書簡、そして、『イリュミナシオン』の詩がジェルマン・ヌヴォー宛ての書簡という性格を持っていることからも明らかだ。「かくしてランボーのテキストが、詩から書簡に移行していった経緯が理解されるだろう。これは必ずしも詩作放棄、あるいは沈黙と呼ぶ必要のない、同一の<書簡>というメディアを用いた書簡作者の変遷であると考えればよいのである。『二人のランボー』(ジャン・マリ・カレの説)がいたのではない。『二重のランボー』(ヴィクトール・セガレンの説)がいたわけでもない。ただ一人の<書簡作者>がランボーのうちに一貫して持続したのである」。――これが著者の結論であり、私の疑問に対する解答ともなっている。
『書簡で読むアフリカのランボー』は、詩を書かなくなってからのアラビア、アフリカ時代の書簡が対象となっているが、『ランボオの手紙』(ジャン・マリ・カレ著、祖川孝訳、角川文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)には、それ以前のランボーの文学生活時代の書簡が収められている。両書の書簡を比較することによって、ランボーという複雑な人間に対する理解をさらに深めることができるだろう。