本屋はいま、「街の避難所」となっているのである・・・【山椒読書論(582)】
東京・荻窪の小さな新刊書店Titleの独特な佇まいを知っているだけに、『小さな声、光る棚――新刊書店Titleの日常』(辻山良雄著、幻冬舎)を手にしてしまった。
「小さな自由」は、カフカから始まっている。「フランツ・カフカの『城』は、『城』に雇われたはずの測量師Kが、いつまでたってもその城には入ることができず、見えない何者かによって翻弄される、迷路のような小説だった。『城』が書かれたのはいまから100年以上も前の話だが、個人が巨大な組織にこづき回され、『責任者不在』『担当者不在』のままたらい回しにされる様子は、ひとたび問題が発生しても誰も責任を取らず、物事がけむに巻かれたようにうやむやになっていく、現代社会を予言していたかのように見える」。
「店をはじめたとき、誰もいない営業後の店で、この場所を終わらせるのは自分しかいないのだということに気がついた。それはとてもシンプルで、わたしがはじめてつかんだ小さな自由でもあった。・・・まともに思えることだけやればよい。それは個人経営のよいところであり、その店が長く続いていくための秘訣でもある。仕事量は増え、肉体的には勤めていたときよりもきつくなったが、それでも続けていられるのは、その小さな自由がわたしには合っていたのだろう」。著者と違い、私は新たに個人経営の店を始めたわけではないが、長い組織人時代に別れを告げ、読書三昧の生活に入った今、「小さな自由」を満喫している。
「街の避難所(シェルター)」では、白洲正子の書斎が登場する。「白洲次郎・正子夫妻の旧邸である『武相荘』を訪れた。・・・母屋の一番奥には、突き出るような恰好で天井が低くなっている一室があり、そこが白洲正子の書斎であった。部屋は三方を本棚で囲まれ、奥の壁に一つだけ、明かりをとるための小さな窓が開いている。・・・正子の書斎にはプライベートな空気がたちこめ、濃密な『異空間』として隔絶している。窓の前に置かれた小机を見ていると、そこから数多くの作品が生み出されたことが想像され、創作というもののはてのなさに気が遠くなった。本に囲まれたその小さな部屋は、正子にとって身体の延長のように感じられたのかもしれない。外の世界からは切り離され、思う存分自らの内に没入できたのだろう。無から永遠を生む作家の秘密を垣間見たようであったが、この書斎は本屋という場所を考えるときにも示唆的な空間だと思った」。
「本のある空間には外からの情報を遮断する力があるのかもしれない。ものいわぬ本の静けさが、『ここは外の空間とは違うのだ』と、入ってきたものたちに告げているのだ。そこに並べられた一冊の本自体一つの情報ではあるのだが、それは同時に遠い過去や異国から届いた声でもある。そうした声は心を鎮め、体を傾けるようにして聴かないと聞こえてくるものではない。だから本屋にいる人は自然と口をつぐみ、本が語りかける小さな声に耳をすませながら、本来のその人自身へと帰っていくのだろう。・・・本屋はいま、『街の避難所』となっているのである」。著者の言うとおり、書斎と本屋は「私の避難所」となっている。
「伝えきれなかったこと」には、こういう一節がある。「わたしの場合、若いころの無駄に思えた時間が、いまになってから活きた。いまこの店があるのは、毎日やることもなく新刊書店や古本屋をぶらつき、一回の入場料で三本の映画を見ることができた名画座で、ひたすら時間をつぶしてきたからだ。人間、時間をかけたことしか身につかない。もちろんそれが人生の役に立つかどうかは生きてみないとわからない。わたしはたまたま運がよかっただけだが、そうした場合だってあることはおぼえていてほしい。つまりわたしが(棚に並ぶ書名をじっと眺めている、ひとりできた若い)あなたに言いたかったのは、声が大きな人をそんなに気にする必要はないということだ。わからないことばを使うことはないし、自分に向かない場所に無理して行く必要はない。ちょっとくらいぼんやりとしているほうが、しぶとい感じで長持ちする」。まさに、そのとおりだ!
一言一言が胸に沁みる一冊である。