ゴータマ・ブッダの原始仏教とは大きく懸け離れた大乗仏教が生まれたのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2364)】
体長80cmほどのジムグリ(Sさんの教示。写真1)に出くわしました。ザクロ(写真2)の実から種が覗いています。ジュウガツザクラ(写真3)、コブクザクラ(写真4)が咲いています。あちこちで、ホトトギス(写真5、9~16)、シロホトトギス(写真5~8)が咲き競っています。
閑話休題、私は無神論者であるが、歴史上の人物、ゴータマ・ブッダには強い関心を抱いています。ブッダが説いた原始仏教が本物の仏教で、ブッダ没後に原始仏教とは大きく懸け離れてしまった大乗仏教は仏教とは言えないと考えています。ブッダが大乗仏教の大流行を見たなら、驚いて腰を抜かすことでしょう。
『大乗仏教の誕生――「さとり」「廻向(えこう)」』(梶山雄一著、講談社学術文庫)のおかげで、大乗仏教がどうして誕生したのか理解を深めることができました。「わたくしは、大乗仏教の成立、とくにインドにおける阿弥陀仏信仰と空の思想の展開には、西アジアの宗教が、たとえ直接的な教義の伝播という形ではないにしても、大きな影響を与えていたと考えている」。
「仏教学者はインド仏教の歴史を4期に分ける。①ゴータマ・ブッダとその直接の弟子たちの仏教(根本仏教、原始仏教)、②仏教教団が2つに分かれ、さらに枝葉を分出して多くの学派ができた時代、おおよそ前3世紀末から西暦紀元ころまでの小乗仏教(部派仏教)、③それと対抗する形で、後1世紀から興隆する大乗仏教、④後6世紀以後に盛行する密教(金剛乗)とである。もとよりこのような時代区分は便宜的なものであって、大乗の萌芽は小乗時代より徐々に成長したのであり、また大乗成立後といえども、小乗仏教はなお存在しつづけている」。
「ブッダ在世当時から仏教の教団は、出家の僧・尼を中心として運営されてきた。ブッダの死後もその状態は続いていたが、また一方で、変化も出てきた。・・・(ブッダの遺体を焼き、納めた)仏塔(ストゥーパ)の祭祀と崇拝を中心に、出家の比丘・比丘尼の僧団とは別に、在家信者たちの衆団が発展し、在家信者たちの仏教がしだいに形成されていった」。
「アショーカ王直後、仏教教団が上座部・大衆部の2派に分裂し、さらにそれぞれから多くの支派が分出するようになると、保守的な上座部系の諸部派は、1つの時代に1つの世界にはただ1人のブッダがいるだけで、多くの仏陀はいない、と考えた。現在はなおゴータマ・ブッダの時代に属するから、つぎに弥勒如来があらわれるまでは、いわば、無仏の世である。われわれがいま無仏の世に生きている、ということは、ストゥーパを崇拝している在家の信者たち、そしてその在家信者たちに好意的であった進歩的な大衆部系の諸部派にとって堪えがたいことであった。たとえこの須弥山世界(地球)にいま仏陀はいないとしても、宇宙の東や西の他の世界には仏陀はいまもいるにちがいない、と彼らは考えた。こうして現在十方諸仏という考え方が定着してくる。大乗仏教が起こる前に、すでに東方の阿閦如来、西方の阿弥陀如来などの信仰は生じてくる。ストゥーパを中心とする在家信者たち、その現在仏への憧憬というものは、大乗仏教への道を用意した」。
「比丘たちの修行と学問は、いわば専門家のものであったので、一般の仏教信者たちには近づきがたいものとなった。在家の信者たちは、職業に精を出し、家族を養い、社会に奉仕せねばならなかった。信者たちの多くの者は字が読めなかっただろうし、学問は理解せず、瞑想するいとまをもたなかったであろう。ちょうど象牙の塔のなかの学者の学問が人びとにとって無縁なものであるように、僧院のなかの小乗仏教は在家の信者たちを見捨ててしまった。仏教はそのはじめから、慈悲と利他をその精神としていた。しかし、小乗の比丘たちは、自己の解脱のための学問と瞑想に専心し、在家の信者たちや一般社会のことを、あまりにも考えなかった。小乗仏教が利己的である、という非難を受けたのも、理由のないことではなかった」。
「なんといっても、前2世紀から数世紀にわたる外来民族の西北インドへの侵入と西アジアの宗教の流入が、仏教改革に拍車をかけた」。著者は、イランのゾロアスター教が西北インドの人びとに与えた影響を重視しています。
今枝由郎が巻末の解説で、こう述べています。「仏教の出発点に立ち返ってみると、開祖ブッダの教えの基本は、自分の行為(業)の結果は自分の身の上に降りかかる(善因楽果、悪因苦果)という自己責任性・自業自得性である。大乗仏教の『方向転換の廻向』の思想は、この鉄則を大胆に破ったところにその最大の特徴がある。そこから生まれたのが阿弥陀仏の恩寵による救済理論であり、中国・日本の浄土門(他力)はその基盤の上に成り立っている」。
著者の大乗仏教寄りの姿勢が気になるが、いろいろと学ぶことができました。