榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」は、仲麻呂と敵対した孝謙上皇のクーデタともいうべき「孝謙上皇の乱」だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2377)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年10月20日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2377)

ウラギンシジミの雌(写真1~5)の銀紙のような裏翅を撮影しようと1時間近く粘ったが、ウラギン(裏銀)シジミならぬ、周囲の緑色を反射したウラミドリ(裏緑)シジミしか撮れませんでした(笑)。ムラサキツバメの雌(写真6~10)、ムラサキシジミ(写真11)、キタテハ(写真12)、ツマグロヒョウモンの雌(写真13)、ツチイナゴ(写真14、15)をカメラに収めました。ツワブキ(写真16、17)が咲き始めました。

閑話休題、『藤原仲麻呂――古代王権を動かした異能の政治家』(仁藤敦史著、中公新書)のおかげで、教科書レヴェルの知識しかなかった藤原仲麻呂について、3つのことを学ぶことができました。

第1は、時の最高権力者である叔母・光明皇后の寵愛を受けて出世し、権力を握ったこと。

第2は、光明皇后の娘・孝謙上皇+孝謙に寵愛された怪僧・道鏡と、仲麻呂+淳仁天皇との闘争は、「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」と呼ばれているが、孝謙のクーデタともいうべき「孝謙上皇の乱」と見做すべきこと。著者は、これは、天武天皇の息子・草壁皇子嫡系を自任する孝謙上皇と、天武天皇の息子・舎人親王系の淳仁天皇との争いであったと喝破しています。

孝謙上皇側の鮮やかな仲麻呂追討計画の成功には、孝謙上皇の皇太子時代の学問の師であった吉備真備の軍略が大きく寄与したと強調されています。

「藤原仲麻呂(706~764年)は奈良時代中期に活躍した貴族政治家である。藤原氏は彼の父の代に、南家(武智麻呂)・北家(房前)・式家(宇合)・京家(麻呂)の4家に分かれた。仲麻呂は、そのうちで嫡系である南家の始祖、藤原武智麻呂の次男として生まれた。律令編纂に功績があった藤原不比等は祖父、『大化改新』で活躍した鎌足は曽祖父にあたる。760(天平宝字4)年、彼は55歳のときに太政官における最高位の大姉(太政大臣)、2年後の762年には正一以となり、臣下としては異例の極位極官に到達する。ところが、さらに2年後の764年には、一転して逆賊とされ、琵琶湖畔で斬首されて最期を迎える」。文字どおり、波瀾万丈の一生でした。

第3は、仲麻呂は闘争に敗れて殺されるが、その先進的な政策は次代に受け継がれていったこと。

「仲麻呂が施行した行政法の集成である『養老律令』は江戸時代まで機能した。また官人の教養として仲麻呂が学習を命じた、唐の則天武后撰述の政治道徳書『維城典訓』と、『律令格式』(現在の刑法・行政法および追加修正法・施行細則)については、10世紀半ばの『延喜式』にもこれらの規定が継承されている」。