奈良時代は熾烈な権力闘争の時代だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2948)】
キヌサヤエンドウ(写真1、2)、スナップエンドウ(写真3、4)が花と実を付けています。ジャガイモ(写真5)、ネギ(写真6)が花を付けています。ニンニク(写真7)、エシャロット(写真8)が育っています。
閑話休題、『奈良時代――律令国家の黄金期と熾烈な権力闘争』(木本好信著、中公新書)のおかげで、奈良時代は熾烈な権力闘争の時代だったことを知ることができました。『続日本紀』や正倉院文書などを始めとする文献への高度な史料批判による成果と、考古学による成果、なかでも平城京を始め地方からも出土する木簡などの新史料の解読と科学的分析といった近年の研究成果を踏まえて書かれているので、説得力があります。
皇位継承を巡る長屋王の変、橘奈良麻呂の変、藤原仲麻呂(恵美押勝)の内乱、道鏡の簒奪未遂事件、井上皇后・他戸皇太子母子の排斥などの政変・政争の背景、経緯、陰の首謀者について、何度も目から鱗が落ちました。
個人的に、とりわけ興味深いのは、奈良時代の閉幕、言い換えれば天武王朝の終焉と、桓武天皇による新王朝の誕生(天智王朝の復活)をもたらした井上廃后・他戸廃太子事件です。
「光仁天皇は宝亀元(770)年10月に即位すると、井上内親王を皇后に定め、同2年正月になるのを待って他戸親王を皇太子に立てている。光仁が即位したのは(天武系の)聖武天皇の長女である井上を妻に迎えて、聖武の孫である他戸をもうけていて、これに皇位をつなぐためであったから当然のことであったといえるが、光仁には他戸よりも、(渡来系の百済氏族出身の)高野新笠との間に24歳も年長、14歳年長との説もある長子の山部親王(のちの桓武天皇)がいて、井上が新笠よりもかならずしも有利な立場ともいえず、また他戸の皇太子の地位も確固としたものではなかった」。
「(井上の示威行動に対し、ライヴァルの)高野新笠も負けてはいなかった。・・・この井上と新笠の光仁の皇嗣をめぐっての争いは、(藤原)永手が俄かに没して、(藤原)良継が内臣に昇って権力を握ったことによって新局面をむかえて、井上の廃后事件が引き起こされることになる。・・・(井上廃后・他戸廃太子)事件は、井上が光仁の死と他戸の早期即位を望んだことが原因だとする理解もあるが、おそらくは事実無根であって、良継や(藤原)百川らが山部立太子実現のために障害となる井上・他戸母子を排斥したものであろう」。
「(新皇太子を決める際に)光仁は他戸の同母姉である酒人内親王を立てたいという心情を吐露した。それでも百川は必死になって山部を推したことから、はじめは難色を示していた光仁もやっと山部の立太子を認めたのだという。・・・井上・他戸母子の廃后・廃太子事件といい、この山部の立太子といい、百川が大きく歴史を転換させたことは確かであって、もし百川が存在していなかったならば現代の皇室も違ったものになったことであろう。古代史が我々の社会と隔絶したものではなく、少なからず現代にも影響していることを考えさせられる」。この件(くだり)を読んで、私の頭の中に、藤原百川という名がしっかりと刻み込まれました。
上記の引用からも分かるように、著者は、研究者たちのさまざまな見解を示した上で、自分の考えを明示するという方法を採っているため、歴史を多角的に眺めることができます。