榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

吉備真備は、実直で、己の職務にひたむきな実務家であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1377)】

【amazon 『吉備真備』 カスタマーレビュー 2019年1月26日】 情熱的読書人間のないしょ話(1377)

植物を利用したかわいい作品たちのアイディア、テクニック、ユーモアに、思わず微笑んでしまいました。因みに、本日の歩数は10,505でした。

閑話休題、『吉備真備』(宮田俊彦著、日本歴史学会編集、吉川弘文館・人物叢書)によって、吉備真備の人生の全体像を把握することができました。

「吉備真備は、本当に真面目な、文字通り穏健な人であった。従って、この人は政治家としては極めて地味であって、華々しい活動をしない。それは功績がない、というのでは断じてなく、改革や変動には不向きな人であったということである。地方に出自をもつ下級官人の子として生まれた真備の入唐留学中のことはよく分らないが、恐らくは孜々として学んだ。それも極めて多方面にわたって天文や音楽にまで及んだのであるが、詩文の方にではなく、いわば実学の方に力を注いだと思われる。その中核をなすものは儒学と軍学であったらしい。帰朝した天平7年には既に齢、不惑を越えていた。橘諸兄に信用され、玄昉と共に立身を続けたが、途中、藤原広嗣に指弾された。藤原仲麻呂(恵美押勝)には嫌われたらしい。筑前守に左遷され、10年以上もの間、九州生活を送った。その間に遣唐副使として再度入唐したが、官は太宰大弐に止まる。この間に『道璿和上伝纂』を書いている。・・・なお、この時、恵美押勝が新羅征討計画を樹てるが、真備は大宰府に在って、防人・築城・軍学教授に力を尽している。真備は実戦向きの戦場を馳駆することを好む人ではない。十数年ぶりで造東大寺(司)長官として都に戻って、直ちに勃発した恵美押勝の乱に際してもまた同様であって、参議として作戦計画の事に当った。勿論、この時既に70歳の高齢に達しているから、騎馬進撃の役に立つ筈はない。が、この人の一生を通じて見て、議に参じて、異見を立てて人と争ったことは殆んどなかったのではないか――唯一の例外は称徳天皇崩後の皇嗣問題だけである――と思われる。にも拘わらず、真備が、その功を認められ、或いは立身の緒口をつかむ機会は、多く軍学・兵法に関係する時にあったことは不思議な因縁というべきである。参議・右大臣としての真備は、太政大臣・法王道鏡、左大臣藤原永手の下に在った。・・・真備が右大臣に任ぜられたのは、かつて東宮学士として教え奉った称徳天皇によってであって、道鏡から任命されたのではない。真備は道鏡の政策の欠点に気がついて、それをおだやかな方法を以て是正しようと努力している形跡さえあるのである。当時の真備は決して政界の策略家や陰謀家ではない。鬱然たる学界・思想界の泰斗の地位に在る。75歳になっていた老真備は、一切、宇佐八幡の神託、和気姉弟、藤川百川の行動には関係していなかった。永手も真備も共に左右大臣の員に備わってはいたが、政界に発言力のない位置に置かれていた。右大臣を罷めて後、81歳の高齢で薨ずるまでの5年間については徴すべき史料があまりない」。

「真備は、何よりもまず優秀な入唐留学生として、また学者で右大臣に昇ったものは前後を通じてこの人と菅原道真と2人のみ、と言うことで有名である」。

「(真備の)実際の在唐期間は正確には17年となる」。

「真備は余程藤原仲麻呂には嫌われ続けたと見える」。

「権勢・富貴を求めず、況んや権謀術数を弄せず、与えられた職掌を克く勉める。そうすることによって真備は、右大臣にも昇り、人にも敬われ、後世からも仰がれる。生涯を通じての謙遜な努力家であったのである」。

著者は、真備の享年について、『続日本紀』には83歳とあるが、最も信用度の高い史料・真備上啓文に拠って81歳とすべきと主張しています。

本書のおかげで、吉備真備が、実直で、己の職務にひたむきな実務家であったこと、度重なる左遷にも腐ることなく、与えられた任務に忠実であったことが、よく分かりました。