榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

遣唐使を2度務め、最新知識・技術を日本に根づかせた功労者・吉備真備・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1374)】

【amazon 『平城京と木簡の世紀』 カスタマーレビュー 2019年1月23日】 情熱的読書人間のないしょ話(1374)

ウメが咲き始めています。早くも咲いているセイヨウタンポポを、女房が見つけました。サクラソウも咲いています。キンカチャが黄色い花を咲かせています。ソシンロウバイも頑張っています。マンリョウが赤い実を、シロミノマンリョウが白い実を付けています。バナナが実っています。因みに、本日の歩数は12,671でした。

閑話休題、歴史の教科書で名前は見たことがあるものの、その事績には不案内な吉備真備(きびのまきび)という人物について知りたくなり、『平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏著、講談社学術文庫・日本の歴史<04>)を手にしました。

藤原不比等の全盛期の717年、15年ぶりに遣唐使が派遣されます。「下道真備(しもつみちのまきび。後の吉備真備)と玄昉が随行したのも、この養老の遣唐使であった。・・・下道真備は律令の摂取に比べて遅れていた礼の秩序の摂取に努めて『顕慶礼』をもたらし、また孔子を祀る儒教の儀式である釈奠の日本への移植に貢献する。さらに制定されたばかりの新しい暦である大衍暦、あるいは天文観測用具、楽器・楽書など、法律に比べて遅れがちであった中国のさまざまな文物の収集に大きな足跡を残すことになる」。

733年、16年ぶりに遣唐使が派遣され、帰りの船で真備、玄昉が帰国します。「この天平の遣唐使は、玄昉や下道真備による多数の典籍の将来、唐僧道璿とインドの婆羅門僧正菩提僊那の来日、鑑真招請の契機になった栄叡と普照の入唐など、この後の日本文化を方向づける重要な役割を果たすことになる」。

橘諸兄の政権時代。「官人育成機関としての大学の整備が下道真備の主導の下に本格化し、貴族の子弟たちの大学入学が義務づけられたのもこの頃からであった」。

藤原仲麻呂が権勢を振るった時代。752年、19年ぶりに遣唐使が派遣されます。「751年11月、34年前に養老の遣唐使として入唐経験のある吉備真備(746年に吉備に改氏姓)が遣唐副使に追加任命されている。真備は前年1月、突然、(仲麻呂によって)筑前守、ついで肥前守に左遷されていたのだが、経験を買われて急遽遣唐使に加えられたのである」。この天平勝宝の遣唐使は、唐の玄宗皇帝に重用されていた阿倍仲麻呂と真備の懇請を受けて唐僧鑑真が来日したことで、よく知られています。

「(新羅を仮想敵とする当時の)大宰府には吉備真備が大弐として赴任していた。彼はかつて玄昉とともに橘諸兄のブレーンとして活躍し、藤原広嗣の標的ともされた。その後春宮大夫として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇)の教育にもあたったが、彼女の即位後まもなく中央政界を追われ、さらに天平勝宝の遣唐使として渡唐し、帰国後も大宰大弐として九州にとどめられた」。藤原恵美押勝(=藤原仲麻呂)に疎まれたのです。

「763年から翌年にかけ、押勝派が占めていたといわれる造東大寺司の長官に、老齢により致仕(=官職を退くこと)の上表を出したばかりの吉備真備が任じられ、また僧綱においても少僧都に道鏡が任じられる」。

孝謙上皇と道鏡に対して押勝が叛乱を起こします。「(対押勝戦の)戦略を練ったのは実は吉備真備であった。造東大寺司長官に任じられて大宰府から戻っていた吉備真備は、押勝の乱勃発を受けて孝謙方の軍参謀を務めたという。・・・押勝はまさに吉備真備の術中にはまっていた」。

参議であった真備は、766年に中納言→大納言→右大臣と昇進します。「儒教重視の施策は、右大臣吉備真備の領導による部分が大きいと思われる」。

770年、称徳天皇(=孝謙が重祚)の死去を受けての白壁王(=光仁天皇)の即位後間もなく、真備は致仕します。

775年、82歳(?)で死去。

時の権力者たちから何度も左遷させられながら、中国で学んだ当時の最新知識・技術を日本に根づかせた功労者・吉備真備の生涯に感銘を覚えました。