「自分のための書評」という利己的な書評は許されるか・・・【情熱の本箱(383)】
『読む・打つ・書く――読書・書評・執筆をめぐる理系研究者の日々』(三中信宏著、東京大学出版会)では、理系研究者である著者・三中信宏の読書・書評・執筆論が展開されている。
書評書きの端くれに連なる私にとって、とりわけ印象深いのは、「(書評を)打つ」の章である。
私の敬愛する書評家・豊崎由美の『ニッポンの書評』を評しながら、豊崎と三中自身の書評のあり方が比較検討されている。「書評に対する著者(豊崎)の基本スタンスは『読者のための読んでおもしろい書評』というスローガンに尽きる。・・・著者(豊崎)とはちがって、私の基本路線は『自分のための書評』にある。読了した本の内容とそのインパクトを文章にまとめることは、他の読者のためではなく、ほかならない自分自身のためだから、そのようなスタンスで書いた文章が運よく誰かの役に立ったとしたら、それは文字通り『望外』の喜びということだ。・・・書評は利己的であるべきだというのが一貫した(職業的書評家ではない)私の信念だ」。
私はこれまで長年、豊崎的書評を心がけてきたつもりだったが、本書を読んで、私の書評は、三中の言う「自分のための書評」でもあったことに気づかされた。
三中は、自らの書評をこう位置づけている。「本を読み終われば書評を書く――この『息を吸っては吐く』の繰り返しを何十年も続けてくると、書評を書くことは私にとって生きることの一部になる」。
そして、その有益性を3つ挙げている。
①書評は読書後の備忘メモであること。「書評の形式でまとめることにより、自分の読書記憶は体系化されかつ強化される。さらに、書評本からの引用文まで含めれば、詳細な読書記録になる。われわれ人間の脳はそんなにたいしたスペックはないので、どんどん本を読んでも悲しいことにどんどん忘れてしまうものだ。しかし、書評形式で読後メモを残しておきさえすれば、たとえその本のことが忘却の彼方に消え去ってしまっても、何かの機会に目に留まれば、紅茶に浸したマドレーヌのように、かつての読後感をありありと脳裏に呼び戻すことができるだろう」。
②書評は書物資料として利用できること。「実際、本書を書くにあたり、私はたびたび自分の書評サイト(leeswijzer)のお世話になった。役に立つから長続きしたのではなく、長続きしたから役に立つ。15年以上にわたりほぼ毎日書き続けてきたこの書評サイトは私の読書人生そのものだ。他のどの図書館の検索サイトを調べるよりも、私のサイトを検索した方が役に立つことが多い。自分用にパーソナライズされた『図書館』そのものだから当然のことだ。今もこの書評サイトは成長し続けている」。
③書評を書く自分自身を分析できたこと。
三中が挙げている3つの有益性は、私にもそっくり当て嵌まる。私も毎日更新しているブログ「榎戸誠の情熱的読書のすすめ」に大いに助けられているからだ。
三中は「自分だけの『内なる図書館』をつくる」と宣言しているが、私は「森のような脳内図書館」をつくることを目指している。