杉原千畝の「命のヴィザ」は、ホロコーストとは関係がなかった・・・【情熱の本箱(385)】
『「命のヴィザ」言説の虚構――リトアニアのユダヤ難民に何があったのか?』(菅野賢治著、共和国)には、驚くべきことが書かれている。
1940年7~8月に、リトアニアのカウナスの日本領事代理・杉原千畝が外務省の反対を押し切って、ホロコーストを逃れようとする多数のユダヤ人に日本通過ヴィザを発給した事跡は、美談として広く知られている。しかし、同時代資料などを渉猟した著者は、この事跡はホロコーストとは関係がなかったというのである。
「リトアニア滞在中のユダヤ難民たちがナチス・ドイツによるユダヤ・ジェノサイドの危険を逃れるために第三国への出立を模索し始めたという経緯は、当時の一次資料をもってしては、いかにしても後づけることができず、また、国際情勢、とりわけ独ソ関係の時系列の上でもおよそ辻褄の合わないことだからである。1940年6~7月、ソ連がリトアニアの共産化に乗り出した時点で、ナチス・ドイツの当地への侵攻はまずもって考えられず、また、ナチスによる反ユダヤ政策が、域外追放,域内隔離(ゲットー化)を経て無化・絶滅にシフトするのも、早くて翌1941年秋以降のことだからである」。
では、リトアニアのユダヤ人たちは、何から逃れようとしたのだろうか。「JDC現地代表としてリトアニアのユダヤ難民支援に当たったモウジズ・ベッケルマンが残した電文や報告書、スルガイリスがリトアニア中央国家古文書館から掘り起こしてくる一次資料、さらには、希少ながら、当時、人々がその場で書き残した手記――なかんずくテルシェイのラビ、ハイム・ステインのヘブライ語日記――からは、1940年夏、一部のユダヤ住民、ユダヤ難民たちにリトアニア残留への大きな不安を抱かせたのは。ソヴィエトの全体主義であり、『忍び寄るナチスの魔手』などではなかったことがはっきりとうかがえる」。
「ベッケルマンによるこれらリトアニア事業の総括のなかでも、ナチスの脅威や『ホロコースト』の予兆への言及がただの一度としてなされていない、という事実である。1940年9月から11月半ば、一部のユダヤ難民たちがリトアニアをあとにしたときも(第一波)、同年末、移住を希望するポーランド国籍者全員にそれを許可する決定がソ連当局によって下され、翌41年1~2月、さらに大きな規模の集団がウラジオストクを目指して動き始めたときも(第二波)、その出立の動機は、あくまでもソヴィエト体制の忌避であり、反ユダヤ主義、『忍び寄るナチスの魔手』、『ホロコースト』の予感などに駆り立てられたものではなかったのである」。
この厚さ5cmに及ぶ実証研究の書は、今後、「命のヴィザ」を扱った多くの書籍に多大な影響を及ぼすことだろう。