バッハ、モーツァルトには、こんな面もあったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2441)】
東京・中央の聖路加国際病院の旧館の礼拝堂(写真1、2)、新館の礼拝堂(写真3)は静寂に包まれています。因みに、本日の歩数は11,895でした。
閑話休題、先日読んだ『大作曲家たちの履歴書』(三枝成彰著、中央公論社)は、18人の作曲家たちを俎上に載せた文句なしの傑作だが、私の好きなバッハとモーツァルトは含まれていませんでした。そこで、この2人が新たに書き加えられている『大作曲家たちの履歴書(上)』(三枝成彰著、中公文庫)を手にした次第です。
●ヨハン・セバスティアン・バッハ――
「バッハは頑固である。絵に描いたような職人気質の彼には、妥協がない。仕事をまっとうするためには、人との衝突もいとわない。首になりかかっても、牢獄に入れられても、信念を曲げることはなかった。またその一方で、自分を正当に評価し、やりやすい環境を用意してくれる雇い主が見つかれば、どんな注文でも聞き、躊躇なく鞍替えする柔軟性というか、よい意味での節操のなさも持っていた。芸術家は自分の好まない仕事は引き受けないかもしれないが、職人は違うのだ。仕事を断わらない」。
「とにかく職人気質。曲がったことが大嫌いな正直者。自らを高めるために、たゆまぬ努力を続ける勉強家。弟子や友人達の面倒をよく見、頼まれれば嫌とは言わぬ人情家であり、自分を批判する相手でさえも公正な眼で見ることができる理性を備えていた。・・・作曲活動とともにバッハの仕事の大きな部分を占めたのは、教育活動であった。聖トマス教会のカントル(音楽監督)としての教会の合唱隊の指導や、副業としての貴族の子弟の音楽教師である。バッハは教えるときにも熱心で、ベストを尽くそうとする姿勢は変わらない」。
「僕はバッハを、『クラシック音楽史上、心に響く音楽を作った最初の人である』と言ってしまおうと思う。さらに言えば、『バッハはロマン派の元祖である』と。・・・近世のドイツの田舎の片隅で、マイナーな一人の職人として生を終えたバッハ。死後も永らく忘れられていたバッハが、ひそかになしえていた奇跡がそこにある。彼自身があれほど崇拝していた神のおられる高みに、音楽という手段をもって、後世の誰よりも近づいていたことを、バッハ自身は気づいていたのだろうか?」。バッハほどの大作曲家が没後、長く忘れ去られていたという著者の指摘には驚かされたが、バッハの死から70年余り経った1823年にバッハを再発見したのは、当時14歳のフェリックス・メンデルスゾーンだったというのです。
●ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト――
「音楽家として成り上がった父と、明るく優しい母、そして利発できらめく才能を持った子供たち。家族間の結びつきは強く、つねに助け合っていた。モーツァルトは決して裕福ではないが、恵まれた家庭環境に育ったと言えるだろう」。
「明朗快活、冗談好き。かたときも落ち着いていることがない。人を信じやすく、夢想癖あり。楽しさを追求するあまり、悪ノリに発展してしまうことも。子供のような純真さを見せたり、おふざけに興じ、わがままで人を振り回すときもあれば、冷静かつ的確に人物分析・音楽批評などをしてみせるときもあり、子供と大人の間をしじゅう行き来しているような人物だった。消費癖あり。美しいもの、楽しいことが大好きで、お金はあればあるだけ使ってしまうというタイプ。妻コンスタンツェもそうだったという説もあるから、似たもの夫婦と言えるだろうか。服装は派手でよい仕立てのものを好み、装飾品にも凝っていた。舞踏会に出かけるのも好きだった。また引っ越し魔でもあり、25歳でウイーンに移り住んでから亡くなるまでの10年間に、11回も引っ越している。家の中では、珍しい小鳥を飼い、そのさえずりに耳を傾けることを好んだ。乗馬もやった。自分が乗るための馬を持っていたという話もある。食べ物に関してはグルメというほどではなかったようだが、酒やタバコもたしなんでいた。・・・ゲームも好きで、自宅にはビリヤード台があったし、ケーゲルシュタットという、ボウリングの原型のような遊びにも興じた」。
「最終的にはウイーンでの生活へと落ち着くが、望んだ宮廷楽長の職には就けず、最後の役職は聖シュテファン教会の副楽長であった」。
「音楽に次いでモーツァルトの天才を表わしているのが、言葉の才能である。これも作品や手紙から推察されることだが、モーツァルトはイタリア語やラテン語に相当通じていたようだ」。
「モーツァルトは多くの手紙を残している。・・・モーツァルトの手紙には、まじめな音楽評もあれば恋文あり、ふざけた冗談混じりのものもある。中でも彼はダジャレや言葉遊び、下ネタが好きだったようで、子供のように悪ノリして書いた手紙も多かった。悪ノリで圧巻なのは、21歳から交際のあったいとこのマリア・アンナ・テクラ宛てに書かれた『ベーズレ書簡』だろう。この手紙には『ウンコ』『おなら』『おしり』『おちんちん』といった下品な言葉が多く書かれていたが、家族をはじめ、モーツァルト死去当初から、嫌悪感を示す人も多く、あのモーツァルトの偉業に傷をつける代物と思ったのか、その多くが長らく門外不出であった。しかし、20世紀に入って、『ジョゼフ・フーシェ』などの伝記文学で知られるオーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクの手によってその全文が出版された」。
「まさに毀誉褒貶、さまざまに評価の分かれるコンスタンツェであるが、モーツァルトは彼らしい純粋さで、彼女を終生大事に思っていたことが、その手紙の数々からも推し量ることができる。それに対する彼女の返信はほとんど残っていないのであるが」。コンスタンツェ悪妻説が幅を利かせているが、モーツァルト自身が彼女を気に入っていたのだから、他人があれこれ言うべき問題ではないのです。