18人の大作曲家の履歴が根掘り葉掘り白日の下に晒されている、文句なしの傑作・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2424)】
さまざまな色合いのシクラメンが咲き競っています。
閑話休題、対談集『考えて、考えて、考える』(丹羽宇一郎・藤井聡太著、講談社)の中で、読書家として知られる丹羽宇一郎が藤井聡太に読むことを勧めている『大作曲家たちの履歴書』(三枝成彰著、中央公論社)を手にしたが、文句なしの傑作です。
ベートーヴェンからストランヴィンスキーまで18人の大作曲家の履歴が根掘り葉掘り白日の下に晒されているからです。作曲家・三枝成彰の読み手を引きずり込む筆力には、正直言って、驚かされました。
例えば、こんなふうです。
●ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン――
「慣れない大家族での生活で緊張を強いられ、多忙な夫に愚痴もこぼさずに妻の役割を果たさなければならないアントーニエは、しだいに自閉的になり心身症になってしまった。自らの音楽で懸命に彼女を慰めていたベートーヴェンの同情はいつしか深い愛情へと変わっていく。アントーニエは離婚を決意し、ベートーヴェンとともに新しい人生へと歩みだそうとしたのだが・・・。投函されないまま、ベートーヴェンの死後に貴重品の入った箱の中から見つかった、激しく甘い愛の言葉で埋め尽くされた3通の手紙。内容の考証から、書かれたのは1812年、そして『不滅の恋人』とは、アントーニエ・ブレンターノであることが今日、世界的に認知されつつある。ところがある悲劇的な出来事が、希望と互いへの愛情に満ちた二人を引き裂くことになった。それは離婚を決意していたアントーニエが別居中の夫の子を身ごもっているのに気づいたこと、そしてベートーヴェンのかつての恋人ヨゼフィーネが彼の子を宿してしまったためである。・・・こうしてベートーヴェンは、終生のパートナーを失ってしまったのだった」。
●フランツ・ペーター・シューベルト――
「彼自身にも背が低く太っているというコンプレックスがあったらしく、ことに才能ある女性や上流階級の子女には積極的に振る舞えなかったし、惚れた女性を生涯美化しすぎる傾向にあった。一方で同じ身分の女性には割と気安く向き合うことができ、欲望は身近な女性で解消していたことから、上半身と下半身は別というタイプの男だったのだろう。だが、そのツケは梅毒という形で彼にはねかえってくる・・・」。
●フレデリック・フランソワ・ショパン――
「ショパンがパリの社交界にデビューするにあたり、その強力な後ろ盾となったのが同郷のデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人であった。知的で類まれな美貌、天使のような美しい声をもつポトツカ夫人は、つとに知られた存在で、彼女のおかげでショパンは大財閥ロスチャイルド家に出入りする機会をつかんだのだった。二人の関係はショパンの死まで続き、これは深い友情であったとも、愛人関係だったともいわれている。僕はおそらくポトツカ夫人が彼の初めての女性体験だったのではないかと思う」。
●ローベルト・シューマン――
「シューマンが精神に異常をきたした原因として、彼が20歳の頃に関係のあった(後年、妻となるクララの実家)ヴィーク家の女中クリステルに梅毒を伝染(うつ)されたためとする説がある。シューマンの部屋に日参していたクリステルとの情事の後、彼は『陰茎の先が痛みだし』、それを聞いたクリステルは『青ざめた』という。この性病が次第にシューマンをむしばみ、全身麻痺を引き起こしたのではないかというのだ。なお、シューマンは当時、陰部の痛みにひどく動揺し、作曲に没頭することで気を紛らわそうと努力したらしい」。
●リヒャルト・ワーグナー ――
「(妻)コジマの腕の中で息を引き取ったのは確かだが、ワーグナーが最後に行なっていたのは論文執筆ではないという説がある。ワーグナーは、隣室に待機していたはずの小間使いベッティ・ビュルケルとのセックスの最中に発作を起こし、ほとんど腹上死に近かった・・・というのがそれだ。仮にこれが事実だとしたら、これまた旺盛な生命力を持ったワーグナーらしい死にざまといえるだろう」。
●ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー ――
「チャイコフスキーは女性との性的な関係に全く興味のない、同性愛嗜好者であったといわれている。・・・だが、当時同性愛は最大のタブーであり、シベリア送りの重罪だった。チャイコフスキーはこれをカモフラージュするためにミリコーヴァと結婚したといわれており、離婚を迫る彼に、彼女は『同性愛であることを公表する』と脅迫したらしい」。
このような引用ばかりだと三枝は下世話な人間と誤解されかねないが、巻末の「特殊な歴史を持つ西洋音楽」によって、彼の見識の高さを窺い知ることができます。「西洋音楽は、教会と宮廷という、音楽的にも教養的にも非常に高度な知識を持つとともに、民衆から切り離された存在の中で生まれたものだ。モーツァルトやベートーヴェンを育てたのは23万1000人(1800年当時)のウィーンの民衆ではなく、そのほんの一握り、教養としてピアノを弾き、歌を歌うことを求められた階級の人たちだったのである。その数6千人弱、よって西洋音楽はこうした少数のディレッタントが育てた音楽といっていいだろう。それに対して他国の音楽は、みな民衆の中から生まれ育っている」。
民衆発の音楽が今日、各国の伝統音楽、民族音楽という地位に甘んじているのに対し、西洋音楽だけが世界的に普遍な存在となった理由が、3つ挙げられています。①楽譜を持ったこと、②豊潤な響きを持つ音楽、基本倍音列(=ハーモニー)の発見が起こったこと、③常に時代精神を反映し変容していったこと。
そして、改革精神の急先鋒ともいうべきキーパースンとして、●音楽を「芸術」にしたベートーヴェンと、●人間が従来持っていた美しいメロディーやハーモニーを完璧に否定してしまったシェーンベルク――が特記されています。
「はじめから大衆と切り離された場所で生まれ育ち、つねに前進・改革を求められ続けた西洋音楽。ベートーヴェンやシェーンベルクの考え方は決して間違っていたとは思わないが、僕たちは今、もう一度『音楽』の本来持っていた豊かな情緒や官能にたちかえり、新しい21世紀の音楽を創りだそうとしているのではないだろうか」と結ばれています。