榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

フェルメールの絵を見ながら妄想を逞しゅうする愉しみ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1711)】

【amazon 『図説 挑発の画家』 カスタマーレビュー 2019年12月22日】 情熱的読書人間のないしょ話(1711)

野鳥観察会に参加し、47種を観察することができました。アトリ、シメ、キジの雄をカメラに収めました。群れている水鳥たちの中に交じっているオシドリの雌が見つかりました。ホシハジロもいます。川辺で30羽ほどのヒドリガモたちが草を啄んでいます。全体像はなかなか見られないバンをバッチリ写すことができました。何と、ゴイサギが21羽も集っているではありませんか。成鳥だけでなく、俗にホシゴイと呼ばれる幼鳥も見えます。アオサギ、ダイサギをカメラに収めました。因みに、本日の歩数は13,784でした。

閑話休題、『図説 挑発の画家――フェルメールの謎と魅力』(西永裕著、秀和システム)には、ヨハネス・フェルメールの絵を見ながら妄想を逞しゅうする愉しみが満載です。オランダのアムステルダム国立美術館までフェルメールの「牛乳を注ぐ女」を見に行き、書斎にその実物大の複製画を掲げている私にとっては、見逃すことのできない一冊です。

著者の妄想はフェルメールの絵を深読みし過ぎではないかと思うほど奔放であるが、とりわけ私の興味を惹いたのは、フェルメールの生活環境についての指摘です。

「(歴史画家から)風俗画家に転向して最初に描かれたのが、『取り持ち女』という絵なんだけど、これにはお手本があって、それは(妻の母)マーリアが所有していた絵だったというのが、ほぼ定説となっている。・・・この『取り持ち女』というのは、当時とても人気のあった主題で、遣り手が客に女を斡旋する場面なんだけど、実は聖書のなかの『放蕩息子』という物語に基づくもので、それが教えの部分が抜け落ちて、表向きは教訓的で、実は悦楽的な絵として好まれたんだ。・・・このシーンはフェルメールが幼い頃から見慣れていた光景かもね。・・・山師のような男だったフェルメールの父親は、居酒屋を兼ねた宿屋を経営していた。当時の宿屋は絵画の取引の場であるとともに、女を斡旋する商売の場でもあったそうなんだ。つまり、フェルメールは、子供の頃からいろんな絵を見る環境に恵まれていた一方、男と女の教育的によろしくない場面もいろいろ目にしていたと思われるんだ。そして、父親の死後、彼はこの宿屋を引き継いでいる。・・・幼い頃から多くの風俗画をみて、実際の男と女の様々なやりとりも目にしていた。それが、風俗画家フェルメール誕生の背景にあったように思えるんだ」。

「彼(フェルメール)の義母マーリアが貸金業などを営む裕福な資産家で、フェルメールは後に義母と同居して暮らしていて、妻の実家のヒモみたいな存在だったから、生涯に40点にも満たない作品しか残っていない超寡作でも、画家としてやっていけたし、ウルトラマリンという超高価な絵具もふんだんに使うことができた。さらに、フェルメール家には10人(一説では11人)も子供がいたけど、義母とライフェンという2人の金持ちのおかげで、この大所帯の一家を食わせていくことができたようだ」。

「子供が14人(15人?)も生まれて、4人が幼い頃に亡くなっている。結婚したのが、フェルメールが21歳だった1653年で、亡くなったのが1675年の43歳のときだから、たぶん30代の終わり頃まで奥さんは毎年お腹が大きい状態だったと思うよ。ということは、フェルメールはアッチの方がけっこう『好き者』だったんじゃないかな」。

「2人のカネヅルがいたフェルメールだけど、さすがに10人以上の子供を育てるのはなかなか大変だったとみえて、オランダの国力が衰えて絵も売れなくなった晩年には、生活もかなり苦しくなって、パン屋へのツケもたまるなど借金が増えていったそうだ。ちなみに、フェルメールの没後、家にあった彼の作品『手紙を書く夫人と召使い』と『ギターを弾く女』が借金のカタとしてパン屋に持っていかれたんだ」。

「絵画市場が崩壊し、裕福だった義母も貸金業が行き詰まり、困窮のなかでフェルメールは、1675年に43歳で亡くなってしまう。レンブランド亡きあとも、オランダの落日のなかで絵を描き続けたフェルメール最晩年の作品は、傑作を描き続けた円熟期に比べると見る影もない。しかし、そのことが逆に、フェルメールがオランダ絵画黄金期の最後の巨匠として。栄光の時代に幕を引いたようにも思えるんだ。フェルメールの死後、彼の芸術が忘れ去られたのと同じように、オランダ絵画そのものも、西洋絵画の表舞台から消えていったんだからね。オランダが再び西洋絵画史に現れてくるのは。19世紀末のゴッホの登場まで、約200年待たねばならない」。