井上ひさしの松本清張論、悲劇・喜劇論、シャーロック・ホームズ論・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2642)】
ムラサキシジミの雄(写真1)、ヒカゲチョウ(写真2)、ヒメカゲロウ科の一種(写真3)、オオシオカラトンボの雄(写真4~7の左)、シオカラトンボの雄(7の右)、アメリカザリガニ(写真8~12)、ハクセキレイ(写真13)、スズメ(写真14)をカメラに収めました。森の中を数時間、彷徨ったが、人っ子一人出会いませんでした。
閑話休題、エッセイ集『この世の真実が見えてくる』(井上ひさし著、岩波書店、井上ひさし 発掘エッセイ・セレクションⅡ)で、私が注目したのは、●松本清張論、●悲劇・喜劇論、●シャーロック・ホームズ論――の3つです。
●松本清張――
「『点と線』を読んだのはちょうどそのころのことで、倉庫番(の仕事)をしているのが恐ろしくて困った。それまでの探偵小説は、自分にいる日常とは遠くへだたった別世界のような空間で殺人事件が発生していた。いわば絵空事のようなものでちっとも恐ろしくはない。ところが『点と線』はちがっていた。自分のいる日常と地続きのところでも殺人が起こりうる。日常の中へ凶悪事件が入り込んできている。それで深夜のビルに一人でいることが恐ろしくなったわけである。それ以来、清張作品の読者になったが、いまでも折りにふれて書棚から持ち出してくるのは、二・二六事件までの昭和初期の軍部の異様な増長ぶりと、それに引きずられて悲劇の深淵に転げ落ちて行く日本社会を活写した『昭和史発掘』(全13巻)である。資料集としても充実したこのシリーズに底流している清張史観の一つは、<無軌道な下剋上が日本に悲劇を導き入れた>ということになるだろう。・・・やがて(清張の)その関心は、悪しき下剋上の総結集ともいうべき二・二六事件の真相解明へ向かい、ついに大著『二・二六事件研究資料』(全3巻)が誕生する。もちろん、松本清張は桁外れにすぐれた小説家であるが、じつは根気のいい史家でもあった。この『昭和史発掘』には、本格的な史家の方角へも向かいつつあった松本清張の、あふれるほどの熱意とたくさんの発見が、いまなおぶつぶつと煮えたぎっている」。
●悲劇と喜劇――
「筆者の心に聞えているのは、イギリスの女流経済学者ジョーン・ロビンソンの言葉だ。彼女はこう云ったのである。『われわれが経済学をまなぶ目的は経済学者にだまされぬようにするためである』と。わたしはこのケンブリッジ大学名誉教授の名言をちょっともじって、『得手勝手の破れかぶれのやり方であっても、とにかくいま情報について考えようとしているのは、情報商人や情報操作人たちにだまされぬためである』という言葉を座右の銘にしよう。この座右銘には、また、できるだけ普通の、ごくやさしい言葉で、情報なるものを深いところで捉えたいという野心がこめられている。・・・情報という覗き穴から見ると、悲劇は主人公の真の姿を主人公自身が探そうとする行為、喜劇は主人公の真の姿を周囲の人びとが探そうとする行為ということになるのかもしれない。ふん、それがどうした? とおっしゃる読者もおいでになるだろうが、物語の祖型が、主人公自身によるか、周囲の人びとによるかは別にしても、とにかく主人公の真の姿を探そうという行為にある、とわかっただけでも筆者には収穫だった。これですこしはましなものが書けるかもしれない。書けるといいが」。
●シャーロック・ホームズ――
「シャーロック・ホームズもののおもしろさの何分の一かが、その書き出し部分にあることはたしかである。ホームズの情報処理のみごとさが、事件の依頼人やワトスン博士ばかりではなく、われわれ読者まで驚嘆させてしまうのだ。・・・なぜシャーロック・ホームズや(私の知人で銀行員の)T氏の情報処理が、それを聞くものにとっておもしろく感じられるのだろうか。答は簡単に出る。すべて人間心理の機微を衝いているからおもしろい(当事者の方々には申し訳がないけれど)のである。情報は人間の体液をくぐりぬけると、途端に娯楽性を帯びはじめるのだ。情報化社会がどうしたの、情報革命がこうしたの、INS社会はバラ色だのと、誇大で、空疎な掛け声ばかりかかる世の中を、どうにかまともな神経で生きて行くためには、情報を娯楽として眺める視点も必要かもしれない。人間の体液をくぐることのできない情報など、どだいたいした情報ではないとも思われるし・・・」。
さすが、井上ひさし、どのエッセイも読ませますね!