『人間のしがらみ』――サマセット・モームにこんな作品があったっけ?・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2666)】
キノコをカメラに収めました。
閑話休題、『人間のしがらみ』(サマセット・モーム著、河合祥一郎訳、光文社古典新訳文庫、上・下)という書名を見て、サマセット・モームにこんな作品があったっけと思う人もいるかと思うが、よく知られている自伝的小説『人間の絆』(サマセット・モーム著、中野好夫訳、新潮文庫、上・下)そのものです。
敢えて、この訳書のタイトルを束縛を強調する『人間のしがらみ』にした訳者・河合祥一郎の思いが、「訳者あとがき」に綴られています。
タイトルだけでなく、訳文にも工夫が凝らされています。例えば、主人公フィリップ・ケアリーにつれない態度を取る、ロンドンで働くウェイトレス、ミルドレッド・ロジャーズとの件(くだり)は、こんなふうに訳されています。
「『想像力もなければユーモアのセンスもない女の子に惚れてもまったくおもしろくないもんだ』。フィリップは彼女の話を聞きながら思っていた。しかし、そういう頭がないのだと思えば、赦すこともできた。このことに気づかなかったら、ひどい目にあわされたことを絶対赦せなかっただろう」。
「フィリップは自分をだめにするこの熱い思いに喜んで屈するつもりはなかった。あらゆる人間の営みは一時的なものであり、いつの日か終わると心得ていた。その日を心待ちにした。恋とは、心に巣食う寄生虫のようなもので、命の血を吸って、おぞましくも生き続けるのだ。生活を激しく蝕むがゆえに、ほかのことに何の喜びも感じられなくなってしまう。・・・朝起きて何も感じないこともあった。すると、自由なのだと思って、心が躍った。もう恋をしていないのだ。ところが、しばらくすると、はっきりと目が覚めて、心に痛みを感じ、まだ治っていないとわかる。ミルドレッドを激しく求めながら、彼女を軽蔑した。愛すると同時に侮蔑することほどつらい拷問はこの世にないだろうと思われた」。
「上品ぶった考えと低俗な心を持ったミルドレッド」にフィリップは翻弄され続けるが、結局、彼女は他の男と結婚してしまいます。
河合の親しみを感じさせる訳文か、中野好夫の格調ある訳文か、いずれを選ぶかは読者の好み次第でしょう。
興味深いのは、巻末の「解説」で、モームの実際の人生と小説で描かれている内容がどの程度重なるかが示されていることです。さらに、「フィリップ・ケアリー年譜」と「サマセット・モーム年譜」が併載されているという念の入れようです。