モームは最も愛した女性の姿を作品中にとどめておきたかったのだろう・・・【山椒読書論(75)】
『お菓子と麦酒(ビール)』(ウィリアム・サマセット・モーム著、厨川圭子訳、角川文庫)は、ウィリアム・サマセット・モームのファンにとっては見逃せない自伝的要素を内包する長篇小説である。
なぜならば、この小説の女主人公について、モーム自身が「私の創った最も魅力ある女主人公」と言っているからである。さらに興味深いことに、このロージーという女性は、モームが生涯で最も愛した、やはりロージーという名の二流どころの女優がモデルと見做されているからである。
作中のロージーは、まだ無名時代の風変わりな作家――やがて英国を代表する作家となるが――の最初の妻という役割を与えられている。彼女は、性的には無軌道で、教養はないが、人がよくて、心が温かく、かわいげがある。一見矛盾する性格が、ロージーという女性の中では微妙な調和を保っているのだ。
ロージーは、こう描写されている。「目鼻立ちは取り立てて美しいとは思わない。貴族的なきりっとした気品などロージーにはまるでない。むしろ鈍いくらいだった。鼻は短くて、肉太だし、目は小さめ、口は大きい。しかし彼女の目は矢車菊のように青く、真赤で肉感的な唇と共に微笑する。その微笑たるや、私の知る限りではもっとも明るく、あたたか味があり、かわいらしかった」。
「私」が焼き餅を焼く場面の二人の会話――「あら、あら、どうしてあなたは他の人のことなんかでくよくよするの? あなたにどういう不都合があるの? あたしといる時楽しくないの? あたしと一緒にいる時幸せじゃないの?」、「とても幸せだよ」、「そう、じゃいいじゃないの。騒ぎ立てたり、やきもちやいたり、ばかばかしいわよ。百年もすればもうみんなこの世にいないわよ。そうなったらどんなことも問題なくなるわ。楽しめるうちに楽しみましょうよ」。
モームと実在のロージーとの恋愛関係は、モームが30歳の時から8年間続く。ロージーを深く愛していながら、彼女が誰とでも恋愛関係に陥るタイプなので結婚をためらっていた。漸く結婚を決心した時、一足違いで彼女は貴族の息子と結婚してしまう。
作中のロージーの夫の作家は、モーム自身は否定しているが、『テス』の作者であるトーマス・ハーディとされている。因みに、『テス』は私の最も好きな英文学作品の一冊である。
モームは皮肉屋としても知られているが、この作品でも薬味として効果を発揮している。例えば、「文壇におけるロイの出世ぶりを、私は感嘆して見守ってきた。ロイの経歴は文学志望の若人の模範となるであろう。私と同時代の作家で、ロイほどの乏しい才能をもって、ロイほどの高い地位にのしあがった者は他に思いあたらない」といった具合だ。