曽我事件は単なる敵討ちか、源実朝暗殺事件の黒幕は――著者の推考が冴え渡る・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2694)】
この辺りを毎日散策している池上均さんによれば、このマガモの雄(写真1)は羽が折れているため北方に戻れず、当地に留まっているとのこと。ヤケヤスデ(写真2)をカメラに収めました。
閑話休題、『源氏将軍断絶――なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(坂井孝一著、PHP新書)の最大の魅力は、鎌倉幕府初期の数々の謎について、著者自身の考えを明示している点にあります。
●曽我十郎祐成・五郎時致兄弟による工藤祐経斬殺事件は、単なる敵討ちだったのか――
「『曽我事件』は単なる親思いの若者による敵討ちではなかった可能性が高い。富士野の現場で討たれたのは祐経だけではなかった。多数の御家人が死傷し、(源)頼朝の身にも一時危険が迫ったと考えられるからである。・・・『曽我事件』の直後から頼朝による粛清の嵐が引き荒れたのである。・・・『曽我事件』を境とする政情の急変、しかも平時体制になってからみられなくなった武断的な制裁が続いたことは、『曽我事件』が頼朝にとって無視し得ない重大な事件であったことを意味していよう」。
著者は、「北条時政黒幕説」を排し、「クーデター説」を支持しています。「『クーデター説』は、こうした(戦時体制から平時体制への移行を進める頼朝への)不満分子が曽我兄弟の敵討ちの混乱に乗じて頼朝を倒し、たとえば(源)範頼を擁立するクーデターを起こした、あるいは暴発を起こした事件とする。本書は、クーデターというより、敵討ちの混乱に刺激された不満分子の暴発だったのではないかとみている。直後に頼朝が実弟の範頼を誅殺し、源氏一門の有力者安田義定・義資を滅ぼすという強硬策に出たのも、クーデター勢力あるいは不満分子に対する危機感の表れであろう」。
●ニ代将軍・源頼家は、『吾妻鏡』が描いたような、蹴鞠に没頭して政務を顧みなかった暗君だったのか――
●三代将軍・源実朝は、『吾妻鏡』が描いたような、公家文化に耽溺し、東国の武士社会から乖離した、北条氏の傀儡だったのか――
「重視すべきは『吾妻鏡』編纂の意図・目的である。近年の『吾妻鏡』研究を牽引する藪本勝治氏によれば、『吾妻鏡』の編纂は1290年代後半の九代執権北条貞時による『徳政』の一環であり、『歴史を語り直す』ことによって、北条得宗家こそ幕府の創業者たる『頼朝の政道』を『継承』する『正当性』を有する、と主張することであったという。『吾妻鏡』が(北条)泰時を顕彰するのは、泰時を頼朝の正統な後継者と位置づけるためであり、二代頼家を蹴鞠に没頭した『暗君』として描き、また三代実朝を和歌・蹴鞠に耽溺し、遂には暗殺の憂き目にあったかのように描くのも、頼家・実朝が頼朝の政道から外れ、継承できなかったことを示すためであったというのである」。
●頼家の遺児・公暁による叔父・実朝暗殺事件に黒幕はいたのか――
「承久の乱後ならばいざ知らず、乱以前における朝幕の力関係や権威・格式の差からいって、一旦、王家の血統が注入されれば、それを元に戻す、つまり頼朝の源氏の血統に戻すことなど考え難い不可逆的なことであった。(子がいない)実朝が提案した親王将軍推戴とは、実はそういうことを意味していた。要するに、実朝が生き続け、親王将軍を後見することこそ、正真正銘の『源氏将軍断絶』だったのである。・・・公暁の与り知らぬところで、後継将軍問題は急展開をみせていた。親王将軍推戴プロジェクトである。無論、大胆で畏れ多いプロジェクトだけに、建保6年の前半は極秘裏に進められたと思われる。しかし、朝幕の合意が成立し、実朝の左大将拝賀・直衣始が盛大に挙行された6月・7月の頃になれば、人々も気づき始めたであろう。・・・(このことを知った公暁の)驚愕、焦燥はいかばかりであったか。親王が将軍に推戴され、実朝が後見するとなれば、(自分の)将軍への道は完全に閉ざされる。・・・一刻も早く、しかも確実に実朝の命を奪うしかない。それは実朝が自分のテリトリーに入ってきた時だ。これこそが公暁が鶴岡八幡宮の右大臣拝賀で実朝を殺害するに至った犯行動機だったと考える」。
著者は、「北条義時黒幕説」、「三浦義村黒幕説」を排し、公暁自身と、公暁に従った少数の者たちによる「単独犯行説」を主張しているのです。
著者・坂井孝一の仮説は、同時代資料などを駆使してのものだけに、強い説得力があります。著者の推考が冴え渡る、読み応えのある一冊です。