太田道灌の謀殺、細川政元の暗殺――本当に、室町時代は諍いだらけだ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2735)】
ハラビロカマキリ(写真1、2)、ツチイナゴ(写真3)、キタキチョウ(写真4)、ヒカゲチョウ(写真5)、ガのアメリカシロヒトリの幼虫(写真6)をカメラに収めました。キバナタマスダレ(写真7、8)、アキノノゲシ(写真9)が咲いています。カクレミノ(写真10)、カリン(写真11)が実を付けています。
閑話休題、『諍いだらけの室町時代――戦国へ至る権力者たちの興亡』(渡邊大門著、柏書房)で、とりわけ興味深いのは、●主君・扇谷上杉定正による太田道灌の謀殺、●細川政元の暗殺、●戦国大名の先駆け・朝倉孝景――の3つです。
●太田道灌の謀殺
「『享徳の乱』終結から4年後の文明18(1486)年7月26日、扇谷家の家宰で、乱において関東管領側の有力武将として活躍した太田道灌が、主君の上杉定正(扇谷上杉家当主)によって相模の糟屋館(神奈川県伊勢原市)で暗殺された。暗殺の原因は、定正と上杉顕定(山内上杉家当主、関東管領)、さらに扇谷家と山内家の家臣の中に、道灌の台頭を警戒する勢力があったためとされる。道灌暗殺の際には手を組んでいた扇谷家と山内家であったが、道灌が死去すると両家の対立は深刻化していった。・・・両上杉氏の対立を契機に、関東地方は古河公方・山内上杉氏・扇谷上杉氏・北条氏、4者の勢力が入り乱れる、渾沌とした状況となっていくのである」。太田道灌は、私の好きな武将の一人です。
●細川政元の暗殺
「『細川政元の暗殺』とは、永正4(1507)年、京都にある細川邸の浴室において細川政元が殺害された事件のことである。この事件は、細川政元が室町幕府を支える有力大名であったこともあり、幕府を揺るがし、畿内の政局を大きく転換させるきっかけとなった。・・・『細川政元の暗殺』は(家臣の)竹田孫七たちが怨恨によって起こした偶発的な事件ではない。この事件については、古くから黒幕の存在が指摘されている。早いものでは、中御門宣胤が事件翌日の日記に、『細川京兆家の家督を相続するはずだった細川澄之(政元の養子)が後継者から外されたことを恨み、家臣と共謀して養父を殺害した。そして、澄之に香西元長兄弟が同心した。言語道断なことだ』と記している。事件の背景には、細川京兆家の家督問題が存在したのである。政元は妻帯しておらず、実子がいなかった。そのため、他家から養子を迎えていた」。昔も今も、家督相続問題は騒動の元ですね。
●戦国大名の先駆け・朝倉孝景
「朝倉孝景は、斯波氏の被官から戦乱に乗じて越前(福井県)の支配を達成した戦国大名の先駆けとなる存在である。・・・孝景は『応仁・文明の乱』という戦乱を最大限に利用したといえる」。戦国大名の先駆けは、伊勢宗瑞(北条早雲)より28年早く生まれた朝倉孝景であったということを知ることができました。