本書のおかげで、徳川光圀の意外な面を知ることができた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2833)】
ジョウビタキの雄(写真1、2)、雌(写真3、4)、セグロセキレイ(写真5、6)、ハクセキレイ(写真7~9)をカメラに収めました。サザンカ(写真10、11)が落花しています。ウメ(写真12)が芳香を漂わせています。因みに、本日の歩数は11,162でした。
閑話休題、『徳川光圀――「黄門さま」で名高い水戸藩主』(鈴木暎一著、山川出版社)のおかげで、徳川光圀の意外な面を知ることができました。
水戸黄門漫遊話は史実ではないこと――「(御)三家の藩主や前藩主が諸国を自由に旅できるはずはなく、実際光圀が藩外にでて旅らしい旅をしたのは、日光東照宮の参詣と、養祖母英勝院(お勝の方。徳川家康の側室)の眠る英勝寺への墓参をおもな目的とした鎌倉への旅だけである。また『副将軍』という役職ももとより存在しない」。
「それでは、実在の徳川光圀の生涯や事蹟のなかに、名君物語や漫遊話がつくられるなんらかの素因があったのかどうか。光圀の生涯をみわたしてみると、藩主在任中から老人や身寄りのない者の生活保護のための施策に意を用いるとともに、孝子節婦の表彰にも力を入れていた。隠居後には、水戸城から北へ五里(約20キロ)ほどのところに構えた山荘を拠点にほとんど席のあたたまる暇もないほど藩内各地の巡見に精をだし、民情の視察に余念がなかった」。
水戸黄門漫遊話の助さん・格さんは、『大日本史』の主要メンバーの儒学者であった――「(水戸黄門の)連れの助さん・格さんのそれぞれモデルといわれる佐々介三郎十竹(宗淳)・安積覚兵衛澹泊(覚)は、光圀が編纂を始め、次の三代藩主徳川綱條により『大日本史』と命名される一大修史事業にかかわった主要メンバーで、ともにその編纂局(史局)の総裁をつとめた実在の優秀な儒学者である」。
「安積の伝えるところによれば、光圀は、日頃から史局員に、自分たちの編んでいる史書は、後世必ず立派な歴史家が出現してより充実した史書をつくるだろうから、そのためのよき参考文献になればよいのだ、と語っていたという」。
「1665(寛文5)年、38歳の光圀は、儒教を学ぶ学校の建設を企て、その師として迎えるため中国明末の遺臣で当時66歳の朱舜水を水戸藩に招いた。・・・光圀自身、舜水の実理・実学を重んずる独自の学風から多くのことを学び、礼楽刑政はもとより、耕作・商売・細工・技術・算術・料理、さらに機織から裁縫までなんでもみずから試みて会得していた、という。実際、光圀は多芸多才の人であった。ちなみに、小石川邸付属の庭園である後楽園は、(父)頼房が築造したものを光圀が舜水の意見を聞き、中国式に整備しなおしたのである」。この小石川後楽園を、私は各季節に訪れています。
「光圀の精神は、その中核には武人・武将としての誇りと覚悟が厳然と存在し、それを包み込むように18歳から自覚的に蓄積してきた儒教・和歌・和学、そしてその外側には仏教の、知識・教養がしだいに層をなしつつ、文人としも厚みを増してきた、という構造になろう。時としてみせる光圀の峻厳な言動には、その精神構造の外側を取り巻いている文人の層を突きぬけて噴出する武将の顔が覗いている。常在戦場という不断の心構えと、修史や古典研究の主宰者として名を後世に残したいとする念願とが経(たていと)となり緯(よこいと)となって織りなす光圀の人間像は、戦国時代の余風もようやく後景に退き、変って太平の時代がせり上がってくるその歴史的転換の舞台に立っていた一人の人間の強烈な自己主張として、とらえることができるのであろう」。