榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

本書のおかげで、馴染みの薄い明代の全体像を俯瞰することができた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2814)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年12月30日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2814)

ジョウビタキの雄(写真1)、ムクドリ(写真2~4)をカメラに収めました。ボケ(写真5~7)が咲いています。

閑話休題、『明代とは何か――「危機」の世界史と東アジア』(岡本隆司著、名古屋大学出版会)のおかげで、馴染みの薄い明代の全体像を俯瞰することができました。

明朝を建設した太祖洪武帝(朱元璋)、2代皇帝となった甥を追放して3代皇帝となった太祖の四男・永楽帝、永楽帝の孫で5代皇帝となった宣徳帝。「永楽帝の『靖難の変』を経て、首都が南京から北京に遷り、北から南を支配する体制になり、太祖洪武帝の構想していたような明朝の政治体制が固まった。15世紀のはじめ、ようやく明朝は安定を迎える。その明朝は『14世紀の危機』という世界的な寒冷化・経済危機から出現した。明の太祖はその情況に応じて体制を構築し、永楽帝以後、それを安定的に継承していったわけである」。

「その体制のもと、およそ100年経過し、16世紀の半ば、嘉靖という年号の時代に、対外的な事象、対外的な危機といえる様相がきわだってきた。この危機を俗に『北虜南倭』という。つまり『北の虜(モンゴル)』、『南の倭(わこう)』という形で現れた対外的な脅威だった。こうした危機を受けて、東アジアは16世紀後半より、いわば新しい時代に入ってゆく。そのプロセスを一言でいうなら『明末清初』となろうか」。

「明朝は14世紀の後半期に誕生した。その14世紀とは、地球規模で気候の寒冷化、経済の不調、人口の激減が起こった時期であり、世界史上『危機』と称するに足る時代相を呈した。明朝はまさに『危機』の落とし子だったのである。その明朝が滅んだのは17世紀の半ば。この17世紀も世界史上、やはり『危機』というべき時代だった。・・・17世紀は、『危機』という点で、東西歩調を合わせた時代だった。そして300年前の『危機』のなか、東アジアに生まれた明朝は、新たな『危機』のなかに亡んでゆく。『明清交代』とは顧炎武も『亡天下』『神州陸沈』と慨歎したように、単なる王朝政権の滅亡ではない。実にひとつの体制の崩潰であると同時に、新たな体制の胎動ととらえることができる。17世紀の東アジア全体をそうしたスコープで見なおすと、『危機』とは大航海時代・『北虜南倭』を承けて胎生した新体制誕生の陣痛といってよい。もはや明朝・従前の華夷秩序・『中華』独尊の旧体制ではおさまらず、避けられなくなった事態だった。日本列島は『南倭』として、経済力・軍事力を飛躍的に増大させてゆき、ついに朝鮮半島へ出兵して、明軍と交戦するにいたったし、『北虜』のモンゴル・マンジュと明朝とは、拮抗して相譲らなかった。日本列島のみならず、さまざまな勢力・集団・地域が分立割拠する形で台頭してくる」。