榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

高名な作家、評論家に対する火を噴くような反論の書・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2994)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年6月28日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2994)

チョウセンアザミ(アーティチョーク。写真1、2)、キリンギク(ユリアザミ、リアトリス・スピカタ。写真3、4)、ヒメヒオウギズイセン(写真5、6)、ヴァーベナ(ビジョザクラ。写真7、8)が咲いています。ナス(写真9)、キュウリ(写真10)、インゲン(写真11)が花と実を付けています。トマト(写真12)が実を付けています。

閑話休題、『メルトダウンする文学への九通の手紙』(渡部直己著、早美出版社)は、高名な作家、評論家に対する反論の書です。その論調は厳しく、容赦がありません。

とりわけ興味深いのは、●村上春樹を称賛する丹生谷貴志、●加藤典洋、●井上ひさし、丸谷才一 ――に対する手紙形式の糾弾です。

●村上春樹を称賛する丹生谷貴志
渡部直己は、これまで同じ考え方をする仲間と思い込んできた丹生谷が、村上の『神の子どもたちはみな踊る』を絶賛したことに怒りを爆発させます。

村上の「『世界』を外から脅かす『絶対的な暴力や死』にたいし抗い闘う『一種の共同戦線』としての『セックス』、という構図がそれである」。

「夢うつつの境位を二重、三重に朧化して綴られたこの小話を、丹生谷貴志は『感動してしまうのが多少悔しいほど巧く書かれた寓話』として殊に称賛し、巨大な破壊から東京を救った人間と蛙の友情譚を『神の子どもたち・・・』全篇の『大団円』と呼ぶことになる。・・・(わたしの)刮目ポイントは、丹生谷氏とはむしろ対蹠的な印象にかかっていて、一言でいえば、村上春樹ほどお澄ましな作家がここまであけすけな筆つきを示すことに興味を覚えたのだった。第二話の脇役に『大事なのは、今の今しっかりメシが食えて、しっかりちんぽが立つことだ』と語らせ、第三話の『女たち』のひとりに『あなたの子どもを産みたいの。あなたと同じくらい大きなおちんちんを持った男の子を』と掻き口説かせるような、まさにそのあけすけな卑雑さにおいて・・・いかにも村上春樹的な『男』が、いったん失った『女』を長い待機の時を経て回復するというあまりにも馴染みのメロドラマであったからだ。・・・つまるところこれは、自己批判どころか、何とも箱庭治療(むらかみはるき)的な祝着ではないか!・・・村上春樹じしんはいまも、『男』として書くことに絶望などしてはいまい。『絶望』のイメージを催淫剤のように使用しながら、より効果的な『射精』を楽しむ術を誰より巧みに心得ているだけである」。言い得て妙ですね!

●加藤典洋
「『ここ三十年来の文学理論を席巻してきたテクスト論』の『功罪』を問い糺し、もって新たな批評理論を打ち立てねばならない。これからそれを実演してみせてやる、といった揚々たる発題部をもつ加藤典洋『テクストから遠く離れて』の『1』、および、『<海辺のカフカ>と<換喩的な世界>』と題されたその『2』に接し、いささか座視しがたいものを覚えたので、一文を呈しておくことにする。確かにいま、ひどく他愛のないものが、馬鹿げたかたちで回帰しかけているかにみえるからだ」。

「あれこれつまるところ、呆れて物もいえないというのが、加藤文『1』にたいする偽らざる感慨であった」。

「(加藤氏は)まさに隠喩だらけの小説、村上春樹『海辺のカフカ』を熱心に語ることになるのだ。・・・出鱈目な物語と出鱈目の読解の、麗しい一体化!・・・拍子抜けするほど相互主観的な結論のなかで、加藤典洋と村上春樹との、いわば甘えの二乗めいた『言語関連』はめでたく完結するのだ。・・・村上春樹の『箱庭』的作品・・・埴谷(雄高)的『隠喩』にみるなんとも情熱的な隔靴掻痒と、村上春樹的『メタファー』の簡潔さ。右(=埴谷の『死霊』)の長広舌の語り手によれば、その得体の知れぬ『全体』のなかで『往きつ戻りつする何か』。これにまといつこうとする言葉たちの必死の面もちと、村上氏の作中人物たちがしばしば口にする『何かとても大切なもの』にたいするお澄ましな比喩」。埴谷を自らの隊列に迎え入れた渡部の村上+加藤への攻撃は、火を噴くように激烈です。

これは、作者はその作品で何を言いたいのかを考える「作品論」の立場に立つ加藤と、その作品から読者は何を受け取るかを考える「テクスト論」の立場に立つ渡部との闘いと言えるでしょう。同時に、両者の「隠喩」と「換喩」の捉え方を巡る考え方の相違も明らかにされています。

●井上ひさし、丸谷才一
「自作『輝く日の宮』の要を注して、(丸谷才一が)作品の主眼は『ものを考える女の闘う人生』にあると揚言するところには、さすがに一驚を呈しておかねばなるまいか。この自注にかんしては、慎みを欠いた追従・賛辞に終始する対談相手・井上ひさしに反し、かつ、『物は言いよう』の斎藤美奈子に和して、そうそう容易く納得するわけにはゆかぬからだ」。

源氏物語』にあり得たかもしれぬ伝説の欠巻の「謎」につき、『輝く日の宮』の主人公・「安佐子の私生活と交差しあって作品の主題をなすこの仮説的発想が、それじたいとして剣呑なものを孕む点も、斎藤美奈子の指摘するとおりだろう。それはつまり『女(=紫式部)があれだけのものを自力で書けるわけがない』という解釈ではないか。そう記す斎藤氏は、ついで、作者によるこのファロサントリックな『仮説』を担う安佐子の『造形』、および、その敵役たる女性研究者の相貌を難じながら、『非常に今風なインテリ女性』として設定されたヒロインと、彼女の『仮説』に露呈する『テクスチュアル・ハラスメント』性を非難するどころか、輪をかけて『テクハラ』な言辞を弄する『源氏』専門家とが、気鋭・大家として対決するその場が、『フェミニズムの牙城』の感を呈する昨今の日文研究界の実状とは余りにもそぐわぬ点を批判する。これほど非現実的な人物と舞台の一体どこに、『ものを考える女の闘う人生』が現れるのかと書き刺す斎藤氏の評は、それとして――つまり、『フェミニズム・コード』の篩にかけて、世上なお猖獗をきわめるマッチョな言説百般を敏捷かつ簡潔に指弾する書物の性格にかなって――十分的確であるのだが、以下に三点ほどの捕捉を加えておくなら・・・」。

「対談相手、井上ひさしの手になる『東京セブンローズ』の、ほとんど紙芝居めいた単純さが参考になるかもしれない」。

丸谷才一+井上ひさしvs斎藤美奈子+渡部直己の対決構図が見て取れます。

なお、『輝く日の宮』を読んだ私は、著者・丸谷の「輝く日の宮」の巻が存在したという仮説は成立し難いと考えています。

渡部直己という評論家を本書で初めて知ったが、大いに同感できる、その村上春樹論に期待して、今後の渡部に注目していきたいと考えている私。