外交の失敗が二度の蒙古襲来を招いた?・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2998)】
アジアイトトンボの交尾(上が雄。写真1~3)、アジアイトトンボの雄(写真4~7)、コシアキトンボの雄(写真8)、シオカラトンボの雄(写真9)、ショウジョウトンボの雄(写真10)、囀るホロジロの雄(写真11、12)、スッポン(写真13、14)をカメラに収めました。炎天下でかなり粘ったが、オニヤンマ、ギンヤンマ、チョウトンボの撮影には失敗(涙)。オニユリ(写真15)、タイサンボク(写真16)が咲いています。
閑話休題、対談集『「外圧」の日本史――白村江の戦い・蒙古襲来・黒船から現代まで』(本郷和人・簑原俊洋著、朝日新書)で、個人的に、とりわけ興味深いのは、●決死の覚悟で大陸をめざした古代日本のトップエリート、●外交の失敗が二度の蒙古襲来を招いた? ●最初のつまずきは大逆事件だった?――の3つです。
決死の覚悟で大陸をめざした古代日本のトップエリート――
「●本郷=(遣隋使・遣唐使は)律令は何としてももってこようと思って、実際にもち帰ったわけですね。ところが科挙はもってきていないんです。科挙は隋の時代に生まれた制度で、要するに官僚を作るための制度ですよね。しかし、日本には官僚制はいらないと判断して科挙を採用しなかったんです。そういう意味でいうと、当時の日本のトップエリートたちは、しっかり取捨選択をしているんですね。●簑原=情報を仕入れる際、意思疎通する言語として何を用いていたのですか。●本郷=中国語です。●簑原=当時の日本のエリートは当然のように中国語が喋れたんですね。●本郷=それはもう一生懸命勉強するんですよ。●簑原=母語の日本語と使い分けていたんですね。●本郷=はい」。
外交の失敗が二度の蒙古襲来を招いた?――
「●簑原=モンゴルは日本に何を見いだしたのでしょうか。屈服させたいということなのですか。●本郷=いや、屈服も何もないんです。現代のアジアの研究者たちがいうのは、フビライは朝貢や冊封といった中国の伝統的な外交のあり方を踏襲したにすぎない。要は、日本に『元という国が新しくできましたよ、だから挨拶に来なさい』といってきただけなんです。それで丁寧に国書まで送ってくれた。しかも、その国書を読むとびっくりするくらい対等な書式で書いてあるんです。●簑原=礼節ある態度で接してるんですね。●本郷=だから、日本側がそれをきちんと理解して、『今度、中国で一旗あげられたそうですね、どうか日本のこともよろしくお願いします』と頭を下げていれば何の問題もなかったんですよ。●簑原=ならば攻めてこなかった? ●本郷=攻めてこなかった。アジア史研究者の間ではそういうとらえ方がされていて、僕自身も納得できる説だと思っています。●簑原=じゃあ、これは日本外交の失敗ということですか。●本郷=大失敗ですよ」。
最初のつまずきは大逆事件だった?――
「●本郷=僕はこの時代の転換点は大逆事件にあったのではないかと思っているんです。歴史がそこから変わってくる。●簑原=なるほど。●本郷=それまでは、学問は学問として守ろうということを桂太郎も原敬もいっていたんです。だけど、そのあと山縣有朋が、それじゃいかんというようになって、天皇万歳という歴史学ができてしまう。天皇が神格化されていくわけです。ただし、まだ山縣の時代の天皇崇拝は目的ではなく手段なんですよね。●簑原=そうですね。明治の元勲は、天皇をエラいとは思っていないですからね。担ぎ出して利用しただけ。●本郷=たぶん、伊藤博文は天皇に対して仲間意識をもっていたと思うんです。力を合わせて近代日本を作り上げてきた戦友という気持ちがあった。決して頭を下げるような存在ではなかったと思います。山縣は最高の元帥まで上ったから、相手が皇族でも陸軍の階級では山縣の方が上になるので、皇族に対しても礼を尽くさなかったというエピソードがあります。そのあたり、維新の第一世代の人は露骨でしたね。ところが、第二世代、第三世代になると勘違いしてしまって、天皇をあがめること自体を目的にする人が出てくる。天皇機関説という考え方がありますが、天皇を機関ととらえないで、神さまだと思って高くもち上げるようになってくる。だから大逆事件は、日本がおかしくなっていく分岐点の一つだった気がします」。
歴史好きには、愉しめる一冊です。