「箸墓=卑弥呼の墓」説は考古学に照らして成り立つのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3043)】
スイフヨウの花色の変化を観察しました(写真1、2は9:00、写真3、4は12:00、写真5~7は15:00撮影)。コブシ(写真8~10)が実を付けています。アオスジアゲハ(写真11)、サトキマダラヒカゲ(写真12)、ツマグロヒョウモンの雄(写真13)、ウチワヤンマ(写真14)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は11,243でした。
閑話休題、『邪馬台国をとらえなおす』(大塚初重著、吉川弘文館)の結論は、このようなものです。「纒向(遺跡)に土器の移動や集中があるとすると、やはりその纒向が邪馬台国の遺物であろうと考えるのは当然である。纒向遺跡近くに突如として出現した前方後円墳の箸墓が卑弥呼の墓であると考えるのも無理からぬことだ」。
「しかし現時点での最大の問題点は、卑弥呼の死の年代と箸墓の築造された年代がぴったり合っているかどうか、ということである。箸墓の築造年代は本当はいつ頃なのか。いまや、箸墓の築造年代の確定はもっとも注目すべき問題となっている」。
「(箸墓の周りに残っている)濠の最下層から出現した土器に付着していた煤などから得られた測定結果が240年から260年代と出たということなのである。この測定結果はおおむね考古学界が認める方向にあると思う。もっと年代をしぼりこんでいけば、250年くらいになるともいわれている。こうして得られた年代の結果は、卑弥呼が魏に救援を求め、魏の皇帝が支援態勢をとったとされる247年頃を想起させる」。
「しかし、ここにひとつやっかいな問題がある。この問題も(邪馬台国)九州説の安本美典氏が以前から問題にしている。桜井市教育委員会が2000年から2001年に実施した周辺部の発掘調査で、周濠内の堆積土から木製の輪鐙(わあぶみ)が発見されている。布留1式の土器と同じ地層から出土したとされる輪鐙は、乗馬の際、その輪に足をかけるための馬具だ。この乗馬用の道具が布留1式の土器と一緒に出土したのである。『魏志倭人伝』には邪馬台国では牛馬がいない、と記されているし、定説では鐙は3世紀末の発明であって、日本へ乗馬の習慣が入ってきたのは朝鮮半島経由で5世紀とされている。・・・従来考えられていたよりも100年も古い時期に馬が纒向にいたということなのか。それとも布留1式の土器はもっと新しい年代に編年されるべきなのか。布留1式土器がもっと新しい年代に編年されるのであれば箸墓=卑弥呼の墓説は霧散する」。
いみじくも、考古学者・大塚初重が認めているように、「箸墓=卑弥呼の墓」説は考古学に照らして成り立たないと、九州説の私は考えています。