豊富な読書量に裏付けられた、出口治明の自由奔放な日本史講義・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1115)】
あちこちで、コクテール(カクテル)というバラが芳香を漂わせています。私の好きな女優、ロミー・シュナイダーに捧げられた品種ですが、華麗でありながら清楚というところがシュナイダーにぴったりのバラです。シュナイダーがナチスから逃れる女を演じ、その凛とした美しさが鮮烈な『離愁』(DVD『離愁』<復刻シネマライブラリー>)は、私の一番好きな映画です。
閑話休題、『0(ゼロ)から学ぶ「日本史」講義(古代篇)』(出口治明著、文藝春秋)は、読み応えのある一冊です。著者の豊富な読書量と、定説を疑う柔軟な思考が著者特有の独自性を生み出しているからです。
例えば、邪馬台国については、このように記されています。「中国はどうも三国に分かれて争っているらしい、ぼやぼやしていると倭も巻き込まれそうやで、と。それに対して統一政権を象徴するでかいお墓を作ろう、ということだったのかもしれません。『邪馬台国は近畿か九州か』という争いとも、前方後円墳登場の謎は関係しています。実は近畿(大和)地方には、前方後円墳が登場する前の弥生時代につくられた大きいお墓がありません。・・・一方で、九州の福岡県糸島市にある平原一号墓をみると、前方後円墳が広がる以前、弥生時代の後期から末期のお墓でサイズは小さいのですが、多数の銅鏡、青銅器などが出土しています。同時代の墓のなかではぶっちぎって副葬品が豊かなのです。これは『中国との交易が盛んだった』だけではなく、大きな権力が九州にあったと考えざるをえません。奈良県桜井市にある、前方後円墳として最古のクラスである箸墓古墳が3世紀半ばのものと推定され、付近にある纏向遺跡とともに『邪馬台国では』とする説がありますね。個人的にはいつか箸墓古墳を掘り起こしてみてはと思います。邪馬台国論争に決着がつくかもしれません。邪馬台国ははたしてヤマト政権と地続きなのでしょうか。いまも多くの謎が残っています」。『決定版 邪馬台国の全解決――中国「正史」がすべてを解いていた』(孫栄健著、言視舎)が辿り着いた「邪馬台国=平原遺跡」説と相通じるものがあります。
著者は聖徳太子不在論を支持しています。「かつての教科書では、この時代の出来事――法隆寺の建立、冠位十二階の制度や十七条憲法の制定、遣唐使の派遣などほとんどの業績が、摂政の聖徳太子に帰せられていました。このような見方に、現代では大きな疑問符がつけられています。その発端となったのが、歴史学者の大山誠一氏の研究です。『いわゆる<聖徳太子>は実在しなかったのでは』という刺激的な問題提起は、一般向けに出版された『<聖徳太子>の誕生』(大山誠一著、吉川弘文館)で、広く知られるようになりました。聖徳太子のモデルとなった厩戸王(用明天皇の子)が、当時有力な王族として実在していたのは確かです。彼が、法隆寺を建立し、仏教を大切にしていたのは間違いのないところでしょう。しかし現代の通説では厩戸王の政治への関与の度合いはほとんどわかっていない、とされています。・・・のちに『日本書紀』を記す時、蘇我氏直系を滅ぼして仏教で国を治めようと考えた藤原不比等たちは、自らの正統性を示すために蘇我氏を悪役に仕立て、代わりに仏教を取り入れて律令国家を目指した先人を必要としました。そこで子孫が絶えた厩戸王を聖人・聖徳太子に仕立てて、蘇我馬子の功績を移したのではないか・・・という見方もできるのです」。
持統天皇と藤原不比等には、ロールモデルが存在していたという指摘には、目から鱗が落ちました。「持統天皇の時代、唐にならった国づくりはより深まっていきます。実は、持統天皇の登場とその政治には、大きなロールモデルが存在していました。ひとたびは唐を滅ぼし自らの王朝を打ち立てた、中国史上唯一の女帝、武則天、その人です。・・・持統天皇のもと、藤原不比等は律令編纂などで手腕を発揮し、701年に『大宝律令』を完成させるなど、功績を認められていきます。・・・不比等は孫の首皇子を天皇にするためにしゃかりきで働き、20年にわたり政権を動かします。持統のモデルは武則天でしたが、不比等のモデルは天皇家と深く結びついた蘇我馬子でした。こうした不比等の働きで、藤原氏はこの先どんどんのし上がっていきます」。
著者は空海の正体をちゃんと見抜いています。「それにしても、たった1年か2年しか修行していないふたり(最澄と空海)が、なぜ『中国で仏教のありがたい教えをすべてマスターして帰ってきた』ような扱いになっているのでしょう。なんとなく、明治期の帝大の先生方がヨーロッパに数年留学してきただけで、一生ご飯を食べられたのと似ていますね。もちろん、彼らが一所懸命勉強したのはいうまでもありませんが、当時の日本には、まだ仏教の有り難い経典自体が少なかったのです。天台教学や、当時最新の仏教スタイルであった密教、曼荼羅のような図像(芸術)などを、日本に持ち帰ってくるだけで、持てはやされるものが中国にはたくさんありました。・・・長期留学を2年で切り上げて帰ってきた空海の出世のきっかけはなんだったのでしょうか。平城太上天皇の変が起きたとき、不安でいっぱいの嵯峨天皇の前に現れて、必勝の祈祷をしたことです。空海は唐好きの嵯峨天皇に唐から持ち帰ってきた知識や文化を提供することでも重宝されました。・・・天台教学は、由緒はあるけれど古い仏教体系でどちらかといえば斜陽の教えでした。そこへいくと密教は当時最先端の教学でした。空海は20年分の生活費を2年間にすべてつぎ込み、漢語に新訳されたばかりの『華厳経』や真言密教の最新経典などを、帰国までに集めに集めていました。・・・密教は非公開の実践を重視するものです。・・・このスタイルを上手く活用して空海は皇族や貴族と密接につながったのです。・・・まさに政商ならぬ政僧(?)空海のセンスだと思います」。
自由奔放な、何とも小気味よい講義録です。