蘇我氏はなぜ悪役とされたのか、本当に乙巳の変で滅びたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(345)】
千葉・柏の大堀川沿いのソメイヨシノ並木を散策中に、キジのカップルを運よくカメラに収めることができました。雌も一緒に撮影できたのは、私にとって初めてのことです。川ではコガモの親子、オオバンを見かけました。中洲にはセイヨウカラシナが茂っており、その先の石杭ではカルガモが気持ちよさそうに日向ぼっこをしています。ヒヨドリはソメイヨシノの花に埋まり、ムクドリは地上で餌を漁っています。
閑話休題、『蘇我氏――古代豪族の興亡』(倉本一宏著、中公新書)は、蘇我氏が権力を振るった6世紀の欽明朝から平安末期に至るまでの蘇我氏の興亡を描いています。
「蘇我氏渡来人説の根拠は存在せず、現在では完全に否定されている」。この断定調が本書の特徴をなしています。
天武天皇の代以降、「古代国家建設の起点として選ばれたのが、推古の代に国政に参与していた厩戸王子(『聖徳太子』)であった関係上、偉大な『聖徳太子』の政治を妨害して、その『改革』の歩みを遅くした敵対者が必要となった。その役割として選ばれたのが馬子をはじめとする蘇我氏だったのである」。
「推古36年(626)3月6日、つまり死の前日、推古は田村王(後の舒明、『蘇我氏濃度』0)と山背大兄王(『蘇我氏濃度』4分の3)を召して遺勅を伝えた。『日本書記』による限り、推古がいずれを次期大王(天皇)に指名したかは明らかである」。このように、登場人物の「蘇我氏濃度」、すなわち蘇我氏の血統の濃淡を明示しているのも、本書の特色です。
興味深いことに、入鹿の実像に言及されています。「入鹿の学識と人物が優れていたこと、そして旻(日文)から最新の統治技術や国際情勢を積極的に学んでいた人物であったことを推測することは可能であろう」。
「皇極4年(645)に起こった(『乙巳の変』と呼ばれる)クーデターは、一般には葛城王子(中大兄王子、『蘇我氏濃度』0)が蘇我蝦夷・入鹿といった蘇我氏本宗家を倒すことを目的としたものと考えられている。しかし、同時に葛城王子の標的が蘇我系王統嫡流の古人大兄王子(『蘇我氏濃度』2分の1)にもあったことは明らかである。また、大臣蝦夷の後継者が入鹿となったことに対する、蘇我氏同族の氏上争いといった側面も見られる。むしろ、中臣鎌足が氏上と大臣の座を餌に、蘇我倉氏の石川麻呂と阿倍氏の内麻呂を誘い込んだと解釈すべきであろう」。すなわち、乙巳の変は、中大兄王子vs古人大兄王子の大王位継承争い、中臣鎌足vs蘇我入鹿の国際政策構想争い、蘇我氏内部における本宗家争い、大夫氏族層内部における蘇我氏系氏族vs非蘇我氏系氏族の争いなど、さまざまな争いの要素が一気に噴出して起こったクーデターだったというのです。
「通常、これ(乙巳の変)で蘇我氏が滅亡したと述べている論考がほとんどであった。しかし、氏としての蘇我氏は、けっして滅んだりはしていない。氏を構成する数多の家の内で、これまで氏上を出していた一つの家が断絶したに過ぎないのである。そして氏上を出す家も、石川麻呂を中心とし、河内を地盤とする蘇我倉氏へと移動した。この氏を基軸として、これからの倭国の歴史は動いていくのである」。「大化前代の蘇我氏は、大王家と重層的な婚姻関係を結ぶことによって蘇我系王統を創出し、大王家の母方氏族となっていたのであったが、乙巳の変の後においても、『改新政府』の王族たちは、蘇我氏の女(むすめ)を次々とキサキとし、蘇我氏とのミウチ関係を再構築した」のです。